
カテゴリー: 特集, 食品・小売・サービス
公開日 2026.02.10
タイにいると、日本では考えられない食の風景に出会うことが多々ある。その一つが、近年レストランやスーパーで目にするようになった「タイWAGYU」だ。「和牛」が日本ブランドとして確立する中、それは一体何か。
和牛のまがいものなのか、それとも全く別の存在なのか。本稿では、2020年頃より兆しを見せ成長しつつある、タイWAGYUの現場を取材した。日本の食材や価値観が、ローカルの条件の中でどのようにアップデートされ新しく生まれ変わっているのか。その構造を探る。
目次
バンコクのレストランやスーパーの精肉売り場で、「Thai WAGYU」という表記を目にする機会が増えている。焼肉店や中級レストランだけでなく、近年は一般消費者向けの小売でも存在感を強めつつある。一方で、日本人にとって「タイWAGYU」は分かりにくい存在でもある。そこで、まずはタイWAGYUの定義と背景を整理しておきたい。
タイWAGYUとは、日本国外に存在する和牛由来の牛「WAGYU」の遺伝資源(精液)を、タイ国内の雌牛(在来種やブラーマン種など)に交配して生まれた、いわゆる和牛交雑種を指す。
現在、日本からの和牛遺伝資源の輸出は厳しく制限されているため、その起点となっているのは、日本が輸出を制限する以前に米国やオーストラリアなどへ渡っていた和牛系統だ(これらはWAYGUと表記する。一方、「和牛」は品種名であり、和牛血統100%の牛を指す。現在は日本で育った牛のみとされる)。
編集部が日本食店のオーナーに聞いたところ「タイWAGYUは味が安定していない」と回答があったが、日本の和牛が長年にわたり霜降り(脂肪交雑)を重視して改良されてきたのに対し、海外に渡った「WAGYU」は体格や赤身量を重視した改良の影響を受けている。そのため、これらを親とするタイWAGYUは、肉質に個体差が生じやすいという特徴を持つ。
一方、大きな魅力は価格だ。タイWAGYUは日本の和牛のおおよそ3分の1程度で、霜降りや柔らかさを比較的手に取りやすい価格で楽しめる(図表1)。「手に届くプレミアム」感が、タイの消費者に受け入れられてきた理由だ。

こうした食文化の変容を背景にしたレストランや小売販売の広がりと並行して、タイWAGYUを育てる農家も増えつつある。地理的表示(GI)の認可を得たスリンWAGYU(正式名はスリン牛)や、スラナリー工科大学が研究開発を進める中で生まれたコラートWAGYUなど、地域名を冠したブランドも生まれ、タイWAGYUは単発の試みではなく、一つの産業として認識され始めている。
また、昨年10月には、国家牛・水牛および製品開発政策委員会が、タイ産牛肉を推進する国家プロジェクト「タイ人はタイの牛肉を食べる」を承認。畜産局を中心に、タイWAGYUを含むタイ産牛肉の研究開発やブランド化、将来的な輸出も視野に入れた支援策を進めている。
タイWAGYUの誕生を理解する上で押さえておくべき背景が、タイにおける牛肉市場そのものの広がりだ。かつてタイでは、牛肉は日常的な食材とは言い難かった。しかし2000年代以降、外食産業の拡大と多様化を背景に、牛肉を扱う料理ジャンルは徐々に増えていった。
ステーキハウス、西洋料理、ムスリム向け料理などを通じて、牛肉は「特別な場で食べる肉」として定着。タイ開発研究所(TDRI)の統計によれば、2025年時点でタイの肉牛農家は約138万戸に達しており※1、東北部(イサーン地方)や北部を中心に、小規模農家による飼養が広く行われている。
参考:※1 TDRIの記事「タイ経済において牛が重要な理由」(2025年9月25日)
牛肉を食べること自体は、すでにタイでは珍しいものではなくなっていたが、その評価軸を大きく変えたのが、日本食の存在だ。2010年代以降、日本食レストランの拡大とともに、柔らかさや脂の入り方を重視する価値観が浸透していった。霜降りの和牛は高級食材として強い印象を残し、牛肉のイメージを塗り替えていった。
こうした市場の変化を具体的なビジネスとして形にしてきたのが、N.Nuea Supply(ノーヌア・サプライ)だ。スーパーの代表であるトップスやグルメマーケットで販売実績を持ち、タイWAGYUを主軸に事業を拡大してきた販売業者だ。創業時のメンバーはCEOのネス氏、ディレクターのムック氏を含むわずか3人だったが、現在は約35人まで増え、5年で組織規模は順調に拡大している。

同社が事業に参入したのはコロナ禍の最中で、海外渡航ができず、輸入牛肉も限られていた。そうした中、ネス氏は自身が牛肉好きであったこともあり、従来のタイ産牛肉に対して抱かれがちだった「硬い」「臭みがある」といったイメージとは異なる、改良された「タイWAGYU」に市場の可能性を見出したという。
開始当初は取扱量がゼロに近い状態だったが、Facebookを通じたオンライン販売からスタートし、現在では月間約60〜80頭、ピーク時には100頭(約30トン)の牛肉を加工・販売。2024年度の売上は約9,800万バーツで、前年から2割超の成長を記録している。
同社の注目すべき点は、創業当初から農家との生産エコシステムを構築していることだ。北部にある4つの契約農家から仕入れているが、精肉は個体単位で管理され、加工されたパックには生産農場や加工日などを特定できる情報が付されている。
こうしたトレーサビリティを前提に、レストランや消費者から寄せられた味や食感に関する評価をデータとして蓄積し、生産者へフィードバックしているという。
具体的には、「味」は飼料の配合、「硬さ」は肥育期間といった要素に分類され、農家と共有される。長く育てれば良い肉になるわけではなく、コストとのバランスも含めて、どの段階で出荷するかを調整する。消費者の評価がデータとなり、農家の品質改善に役立っている。
こうした品質管理の基盤として、同社は創業時から口蹄疫フリー、赤身増強剤不使用、適正製造規範(GMP)、ハラル認証などの各種認証を取得している。これらは安全性の担保にとどまらず、ホテル日航バンコクやコンラッド等のホテル、外資系スーパー、レストランなどのBtoB取引が拡大する中で、前提条件として機能してきた。BtoB事業は現在、同社の売上の8割を占める戦略的な成長要素となっている。
ネス氏はタイWAGYUについて、「サプライヤーとしてのプライドをかけた挑戦だ」という。市場価格の低い一般牛ではなく、付加価値の高いタイWAGYUを育てることで、農家の所得向上につなげることを目指している。このように販売側が生産者と消費者のあいだに立ち、改善を重ねながら価値を形づくっていく構造は、この市場の可能性を感じさせる大きな要素だ。
創業者の二人は、タイWAGYUを日本和牛の代替としては捉えていない。タイWAGYUはタイではプレミアム牛として位置付けられているが、程よい噛み応えと柔らかさを併せ持ち、タイ料理にも合わせやすい点が特徴だ。日本の和牛を「オリジナル(本家)」として明確に位置づけ、その歴史と品質に対して強い敬意を払う。
ネス氏は「日本の100年以上にわたる飼育ノウハウの蓄積や、衛生管理、トレーサビリティの完成度において、タイは同じ水準には達していない」と話す。タイWAGYUは異なる食文化や環境の中で設計され、現在進行形で進化している「食の新しい選択肢」であり、「イノベーション」だと表現する。日本の和牛とは異なる食体験として楽しんでほしいという。
近年の日本食ブームにより普及してきた“柔らかい”牛肉食文化は、ノーヌア・サプライのBtoC販売にも反映されている。同社では創業当初から、焼肉用やすき焼き用といった用途を想定したセット商品を展開し、日本的な食体験としてタイWAGYUを提案してきた。単なる精肉販売ではなく、食べ方まで含めて提示することで、家庭で牛肉を楽しむ選択肢を広げていった形だ。
こうして日本の和牛人気を起点に、牛肉を「特別な料理として楽しむ」感覚が浸透し、その受け皿としてタイWAGYUが位置づけられてきた。タイWAGYUの市場が成長してきた背景には、こうしたタイの消費者側の食への探究心がベースとなっている。

消費者の受け皿をベースに生産・販売者が拡大し、市場は着実に大きくなりつつある。しかし、タイWAGYUの生産は依然として不安定さを抱えている。最大の理由は、「生産をコントロールできないこと」だ。

カセサート大学カンペンセン校でタイWAGYUを研究するスリヤ・サワノン教授によれば、WAGYUの精液を用いて交配しても、枝肉検査で一定の脂肪交雑(サシ)が確認され、「タイWAGYU」として認定されるのは全体の約5〜10%に過ぎない。残りの9割前後は、和牛の血を引いていても通常の肥育牛として流通する。この点を含め、同教授はタイWAGYUが直面する課題について、以下のようにまとめる。
①血統の管理:多くの農家では血統記録が十分に管理されておらず、市場で取引される子牛の親牛や使用精液が不明なまま肥育が始まるケースも少なくない。そのため、「タイWAGYUとして認められるかどうかは育ててみないと分からない」という運任せの生産になりやすい。
②遺伝資源の枯渇:日本からの和牛精液の直接輸出は認められておらず、タイで使われているのは、2010年代前半までに米国やオーストラリアへ渡った和牛系統が中心だ。個体差が大きく、仮に良い結果が出た種雄牛が見つかっても、精液の在庫切れや国別クオータ(国別に割り当てられた輸入可能数量)により継続利用できないことも多い。交配からタイWAGYUと認定されるまでに3〜4年を要するため、改良のスピードはどうしても限られる。
③国際基準(GMPなど)を満たす「と畜場」不足:プレミアム市場や輸出に対応するには、個々の農家や企業の努力だけでは限界があり、政府による標準的なと畜・加工インフラの整備が不可欠。
また、市場成長や輸出を目指した国家産業にするためには持続可能性が重要となる。同校ではコストを抑えつつ高品質な肉を作るため、耐暑性交配と飼料管理に重点を置いた研究が進められている(図表2)。

現時点で、こうしたプレミアム牛肉が占める比率は、タイ全体の牛肉市場の中で2〜3%に過ぎないという。市場はまだ小さく未完成だが、注目すべきは、タイWAGYUがタイ固有の産業として自然発生したものではない点にある。
日本食材という外来の価値を起点に、サプライヤー、農家、研究機関がそれぞれの立場から「どう売れるか」を考え試行錯誤を重ね、ローカルの条件に合わせて新たな価値を再設計してきた。その結果として、市場が少しずつまわり始めている。
日本米がジャポニカ米として定着してきたように、外来の価値が現地の条件に適応し、市場として成立していくプロセスは、タイWAGYUに限った話ではない。タイWAGYUの現場は、日本人が想像できないようなタイの農業の厚みと、生産・販売者の強さ、研究機関が合わさり、新しい市場を形づくる土壌となりうることを示している。

THAIBIZ編集部
和島美緒


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