カテゴリー: ビジネス・経済, ASEAN・中国・インド
連載: 経済ジャーナリスト・増田の眼
公開日 2023.09.26
タイのセター新政権は9月13日、当初の目玉政策の一つとして中国人とカザフスタン人を対象に、今年9月25日から来年2024年2月29日まで30日間の滞在を認めるビザを無料化することを決めた。新型コロナウイルス流行に伴う中国の厳しいロックダウンで激減した中国人旅行者の復活、そしてタイ経済全体の浮揚を期待しての措置だろう。しかし、その効果は薄いのではとのメディア報道もある。その主な理由にはタイ旅行の安全性に対する中国人の不安が大きいからだという。しかし、やはりそれだけではないだろう。
このコラムでは最近何度か中国の不動産バブル崩壊と経済危機について伝えてきた。もちろん私自身も中国の現場取材をしているわけではないので、まだリアリティーはない。ただ長年、国際金融・経済記者を続けてきた「勘」だけでいうと、今回の中国の不動産・経済バブルの崩壊はいよいよ「現実」かもしれないとも思える。その場合、中国人の所得も減少し、海外旅行のゆとりがなくなってくる可能性もあり、タイへの中国人旅行者の本格復活が本当にあるのか、注意深く長期的に見守る必要がありそうだ。
23日付バンコク・ポスト紙(3面)によると、国営タイ空港会社(AOT)のケラティ社長は22日、中国人のビザ無料化措置がスタートする今月25日からの1週間で、ドンムアン空港、スワンナプーム空港に到着する中国人旅行者数は12万人超に急増するとの予想を明らかにした。AOTによると、ビザ無料化が始まる1週目(9月25日~10月1日)にスワンナプーム空港を離着陸する中国向けの旅客便数は合計674便に達し、これらの便での中国人の乗降客数は到着、出発合計で13万0593人になるという。一方、同期間にドンムアン空港を離着陸する中国便数は合計414便と前週の326便を大幅に上回り、これらの便での中国人乗降客数は5万7549人で、前週の4万3783人から増加する見込み。ケラティ社長は、今年1月1日から9月17日までの中国-バンコク(スワンナプーム空港とドンムアン空港)間の旅客便数1万0333便で、合計乗降客数は160万人だったと明らかにした。
ただ、中国人旅行者数の本格回復への懐疑的な見方も多い。20日付バンコク・ポスト紙はビジネス2面で、「中国人を呼び込む方法を見つける」というタイトルの解説記事を掲載している。副題は「(タイ訪問を検討している)潜在的訪問客は旅行の安全性を懸念しており、ビザ免除だけでは不十分かもしれない」だ。
同記事はまず、「中国は8カ月以上前に海外旅行規制を撤廃したが、タイへの訪問者数はまだ、以前のペースを回復できていない。今年初めから9月10日までの中国人訪問者数は228万人で、年間では400~440万人と予測されており、当初予想の500万人を下回る見込みだ」と報告。中国経済の低迷が旅行者数の減少の一つの原因の可能性があるが、旅行代理店や中国本土に5つの事務所を持つタイ政府観光庁(TAT)は、訪問者数の低迷には他の理由もあると確信しているという。そして、中国国境が閉鎖されていた2021年の中国本土からの訪問者数は1000万人だった2019年比で99%の大幅減だったとのデータを改めて紹介。その上で、観光当局者は「中国人がタイ旅行の予約を躊躇している理由では、旅行者の安全性への信頼感が最も重要な要因だとみているためだ」との見方を示した。
なぜ中国人がタイ旅行に消極的なままなのかについて同記事は興味深いストーリーを紹介している。それはまず、2012年に公開された中国のコメディー映画「Lost in Thailand」の商業的成功により、中国人旅行者が北部チェンマイに殺到したことから話を始める。中国人のタイ訪問者数は2011年には170万人だったが、2013年には460万人と3倍近くに急増、その後も増え続けた。筆者も強く記憶しているが、2018年7月には南部プーケットで発生したボート転覆事故で中国人観光客46人が犠牲になったという極めてネガティブなニュースがあった。それにもかかわらず、新型コロナウイルス流行の直前までは中国人のタイ旅行の増加が続いた。
しかし、今年の中国人のタイ旅行は再び映画の影響を受けており、それも今回はネガティブなインパクトだと指摘。東南アジアで、海外に人身売買され、オンラインで詐欺を強要される実際の事件を描いた中国の犯罪スリラー映画「No More Bets」が中国で旅行心理を動揺させているという。中国人は東南アジア旅行での安全性を不安視しており、タイも例外ではない。さらに、今年初めから多くの中国人がタイ旅行中の安全への懸念をソーシャルメディアで発信しているという。タイ旅行業協会(ATTA)のシティワット会長は、タイでの中国人を対象とした誘拐と詐欺を警告する中国のソーシャルメディアにはフェイクニュースも交じっているとコメント。中国人はこうしたコンテンツに神経質になり、信じてしまう傾向もあるとの見方を示したという。
その上でシティワット氏は、疑いもなく経済の低迷が中国人の海外旅行意欲を阻害している一方で、過去数カ月間、タイで中国人観光客が巻き込まれた犯罪は少ないと強調。中国経済が反発するか、ビザ免除措置を受けるか否かにかかわらず、観光産業の最大の課題はタイ旅行の安全性に関するネガティブな印象を払拭することだと訴えた。9月17日付バンコク・ポスト紙(1面)は、セター首相がタイと中国の関係強化と両国間の観光業での協力関係の強化について話し合うため、10月8~10日の日程で中国を訪問する計画だと報じた。
中国人のタイ旅行が新型コロナウイルス前の1000万人の水準までいつ回復するのか。それは長期的にはやはり中国経済の動向次第だろう。今回の不動産バブルの崩壊が日本のような長期的な停滞、あるいは衰退にまでつながる可能性があるのか。そしてその影響は海外旅行関係だけでなく、他産業の対外投資にも及ぶのだろうか。
タイ投資委員会(BOI)によると、今年上半期の投資申請件数は前年同期比18%増の891件、金額では同70%増の3644億バーツ(103億ドル)と好調だった。電子、食品加工、電気自動車(EV)サプライチェーンなど自動車などのターゲット産業分野の海外企業が生産拠点としてタイを選んだことで、外国直接投資(FDI)が3040億バーツと同141%急増したことにけん引されたという。FDIでの国別では中国が主に電子部品中心に132プロジェクトの投資申請があり、総額は615億バーツとトップだった。2位はシンガポールの73件、591億バーツ、3位は日本で98件、353億バーツだった。
業種別の実績のうちEVについてはASEANのEV生産ハブを目指す政府の促進策が奏功し、「これまでにバッテリーEV(BEV)メーカーの14社が投資奨励制度の承認を受けており、その合計投資額は339億バーツ、生産能力では27万6640台に達する」としている。具体的には、これまでに中国の比亜迪(BYD)、長城汽車(GWM)、上海汽車(SAIC)、ドイツのメルセデス・ベンツ、国営タイ石油会社(PTT)グループと台湾の鴻海精密工業(フォックスコン)との合弁会社ホライゾン・プラスなどが承認を受けているほか、重慶長安汽車、広州汽車集団の子会社である広汽埃安新能源汽車(AION)もタイへの投資計画を発表している。
今年上半期までは中国企業のタイ投資はEVを中心に絶好調だった。それが特に8月ごろから不動産バブル崩壊を中心とする中国経済の変調が世界的なニュースとして拡散した。しかし、人口14億人という巨大国家、中国の社会経済構造は極めて奥深く、表面的なバブル崩壊があったとしても日本の1990年代のバブル崩壊のように、一国の経済すべてが一気に危機に陥るわけでもなく、もう少し長期的に見守る必要がある。
タイ東部のリゾート、パタヤの沖にラン島という人気の島がある。新型コロナウイルス流行前に同島の最も賑わうタウェンビーチを初めて訪れた時、主に中国人の団体旅行客でごった返し、ビーチはそれこそ「芋の子を洗うよう」な状況で海水も濁り、とても泳ぎたいと思う状態ではなかった。ところはコロナが収束しつつあった昨年11月ごろに再訪すると、観光客数はほどほどで、海は驚くほど透明度が高かった。中国経済、そして中国人観光客の復活度合いは、このラン島のビーチの透明度で測れるのかもしれないと思った。
THAIBIZ Chief News Editor
増田 篤
一橋大学卒業後、時事通信社に入社。証券部配、徳島支局を経て、英国金融雑誌に転職。時事通信社復職後、商況部、外国経済部、シカゴ特派員など務めるほか、編集長としてデジタル農業誌Agrioを創刊。2018年3月から2021年末まで泰国時事通信社社長兼編集長としてバンコク駐在。2022年5月にMediatorに加入。
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