カテゴリー: 組織・人事
連載: Asian Identity - タイ人事お悩み相談室
公開日 2025.07.09
Question:退職インタビューをすると「キャリアパスが見えない」という発言が頻繁に出てきます。どういう対策をするのが良いのでしょうか?
Answer:このテーマは、「制度設計」以上に「イメージ」「伝え方」が重要です。
「この会社は、キャリアパスが見えないので辞めます」タイ人スタッフからこうした言葉を聞いたことのある日本人マネジャーは少なくないでしょう。思ったよりも早いタイミングで転職されることも少なくなく、「忍耐力が無い」「キャリアを急ぎすぎ」と感じることもしばしばです。その背景には日本とタイの働き方、価値観、人事制度の大きな違いが存在しています。
まず認識しておきたいのは、「キャリアパス」という言葉に対する認識の違いです。一般的に「メンバーシップ型」と表現されることも多い伝統的な日本型組織では、「キャリア=社内キャリア」という暗黙の前提があります。それゆえ、日本人が“キャリア”という言葉を使う時、会社に長く勤める中で経験を積み、徐々に役職が上がっていく「社内での道のり」の意味合いを帯びています。
一方、タイでの“キャリア”とは「自分が将来なりたい姿への道筋」であり、「社外への転職も含めて、どのように自分の市場価値を高めていくか」というイメージを持たれています。
つまり、タイ人がキャリアパスを考える時、「①この仕事で自分がどんなスキルを身につけられるのか」「②いつ・どのように次のステージに進めるのか」の2つが重要になり、それが具体的に可視化されているかどうかが重要なのです。
だからこそ、「キャリアパスが見えない」という言葉の背景には、「この職場にいても力が身についている気がしない(成長実感がない)」「どんな時間軸で、何を満たせばステップアップできるのかがわからない(ネクストステップの不透明さ)」という不安が含まれていると想像できます。
最近は自分の市場価値を意識している日本人も多いので、それほど大きな違いはないように感じるかもしれません。しかし、根底としての違いがあるのは、日本人とタイ人の「時間観の違い」です。
日本企業には暗黙の人事異動のサイクルがあり、それはたいてい3〜5年です。約5年程度で上司が変わったり、組織変更が起きたりしやすくなります。それらを通じて「一つの仕事を覚えて成果を出すのに、だいたい5年はかかる」という前提が組織に無意識的にインストールされているのです。
しかし、タイ社会にはそのような前提がありません。「3年は頑張ってみるか」と思っている日本人の横で、1〜2年程度でも変化が感じられないタイ人は「キャリアが見えない」と感じてしまうことがあります。日本人に比べてタイ人には、こうした「見切るタイミングの早さ」があるため、日本人は「タイ人は性急にキャリアパスを求める」と感じてしまうのです。
キャリアパスを感じさせるためにまず必要なのは、「等級制度の整備」です。会社によって職位、資格、など呼び方は様々ですが、社員の序列を表す仕組みは殆どの会社に何らかの形で存在しているでしょう。
しかし、タイの組織においては、等級自体が複雑になってしまっており、等級の呼称は存在するものの、定義がなされておらず、それらの違いが不明確であるということが珍しくありません。まずはそれをきちんと定義しましょう。
その定義の中に、「今の等級には何が求められるのか(どのような能力が必要か)」を含めることで、本人は「何を頑張れば次のステージに上がれるのか」を認識することができるのです。
例として、「スタッフ1等級:見習い」、「スタッフ2等級:自立した担当者」という等級があるとします。その場合、営業職のスタッフ2等級に求めることとしては、上司の指示を仰ぐだけでなく、自ら顧客課題を考えて主体的にアプローチしていくことなどが考えられます。
その実現のためには、「過去のプロジェクト事例の知識」「応用的な商品知識」「ヒアリングスキル」「提案作成スキル」などの能力が求められるでしょう。
そうした必要スキルの明確化ができていれば、スタッフ1レベルの社員には「あなたは今年はこのスキルと、このスキルを意識して身に着けましょう。そうすれば次のレベルが見えてきますよ」などと、今取り組むべきことを提示することができます。このように「本人の成長課題を提示する」ことが、キャリアパスを意識しながら部下を育成する上司のアプローチとなります。
ただし、実際には「等級定義を明示しているはずなのに、“キャリアパスがない”という発言が出る」ということも、よくある現象です。そんな反応があると、「ここに書いてあるじゃないか」「一度説明しただろう」と会社側としては苛立ちを感じてしまうものです。
「資料は存在しているのに、見られていない」「説明したはずなのに、頭に入っていない」残念ながら、このようなケースが頻発してしまうのが組織のリアルです。
特にタイ人スタッフは「わかっていなくても、わかったと言う」「表面上は同意していても、内心では納得していない」ということが少なくありません。上司に質問や確認をすることは失礼であるという文化的規範があるからです。だからこそ、「わかるように伝える」コミュニケーションをすることが会社側の責任になります。
陥りがちな落とし穴としては、「文字の洪水」です。等級定義や求めるスキルを書き出せば書き出すほど、情報量が膨大になり、資料がどんどん分厚くなります。残念ながらそれをすべて読み込んで理解してくれるタイ人は少ないでしょう。
いかにシンプルにわかりやすく伝えられるかがポイントです。特にタイ人は視覚的な情報への依存度が高いので、文章や抽象概念だけで制度を説明しようとせず「図解」「絵」「フローチャート」などを用いてキャリアパスを見せていくことが効果的です。
弊社では、自社の等級を整備した際に、タイ人HRに「なるべくシンプルで視覚的にわかりやすいものを作成してほしい。当社はタイのコンサル会社だから、タイらしく面白みがあり、独自性のあるものにしてほしい」と依頼しました。結果としてスタッフから出てきたのが図表1のようなものです。
タイの神話をヒントにしたものですが、タイらしいストーリーがあり、また会社としてのアイデンティティも感じられるものだと思い、私は気に入って採用しました。以降、弊社では長年にわたってこの等級制度を運用しています。
各等級に求められる具体的な能力はもう少し詳細な定義がありますが、新入社員にも記憶に残りやすい形で等級の構造を明示することができていると思います。これは少々ユニークな例かもしれませんが、わかりやすいイメージにする参考例として捉えていただければ幸いです。
まとめると、キャリアパスを感じさせるためには、制度の設計よりも、“制度の体験”が大切であると言えるかもしれません。いかに制度を「社員の未来を描くツール」として活かせるかどうか。そこに、タイ人材の定着と成長の鍵があるのではないでしょうか。
株式会社アジアン・アイデンティティー 代表取締役
中村 勝裕 氏(愛称:ジャック)
愛知県常滑市生まれ。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒業後、ネスレ日本株式会社、株式会社リンクアンドモチベーション、株式会社グロービス、GLOBIS ASIA PACIFICを経て、タイにてAsian Identity Co., Ltd.を設立。「アジア専門の人事コンサルティングファーム」としてタイ人メンバーと共に人材開発・組織開発プロジェクトに従事している。
リーダー向けの執筆活動にも従事し、近著に『リーダーの悩みはすべて東洋思想で解決できる』がある。Youtubeチャンネル「ジャック&れいのリーダー道場」も運営。
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「タイ人事お悩み相談室」コラムで取り上げます!→ info@a-identity.asia
Asian Identity Co., Ltd.
2014年に創業し、東南アジアに特化した人事コンサルティングファームとして同地域で事業を展開中。アジアの多様な人々を調和させ強い組織を作るというビジョンの実現に向けて、"Asia is One”をスローガンに掲げ、コンサルタントチームの多様性や多言語対応を強みに、東南アジアに展開する日本企業を中心に多くの顧客企業の変革をサポートしている。
◇Asian Identityサービスサイト
http://asian-identity.com
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