カテゴリー: ビジネス・経済, ASEAN・中国・インド
連載: 川島博之が読み解くアジア
公開日 2023.01.31
ベトナムのグエン・スアン・フック国家主席は1月17日、新型コロナウイルス流行期に起きた一連の汚職の監督責任を取る形で辞任を表明した。新型コロナに関連した汚職としてはPCR検査キットに関するものと臨時帰国便に関するものがある。
PCR検査キットに関する汚職は検査キットが不当に高い価格で医療機関に納入されたと言うものだ。新型コロナが蔓延した際に大量の検査キットが必要になったが、その際に談合が行われて、保健当局は不当に高い価格で検査キットを購入したとされる。この件に関連しては、前保健相、前科学技術相、前ハノイ市長など100人以上が逮捕されている。
噂では、この汚職事件にフック氏の妻が関与していたとされる。フック氏の公式の辞任理由は首相時代(2021年3月まで)に起きた、部下である公務員の汚職の監督責任を問われたものだが、事情通の間では妻の監督責任が真の理由だとささやかれている。
PCR検査キット汚職は官庁への物品の納入に関わるもので、その手口はよく見られるものだ。その一方で帰国便に関する汚職はちょっと特殊であり、日本も関係するので少し詳しく説明したい。
帰国便汚職に関連して12月22日にはブー・ホン・ナム前駐日大使が逮捕されている。新型コロナ流行期に日本からベトナムに帰国する航空便の手配に関連して賄賂を受け取ったとされる。既にこの事件では前駐日大使の他にも外務次官など30人以上が逮捕されたが、事件の概要は次のようなものだ。
新型コロナウイルスの感染拡大によって2020年春以降、世界の往来はストップした。その結果として多くの人々が海外に取り残されてしまったが、取り残された人々を救うために各国は臨時便の手配を行った。ベトナムもその例外ではない。日本には技能実習生など多くのベトナム人が滞在しており、コロナ禍において日本からの帰国を希望するベトナム人は特に多かった。
臨時便の手配にはベトナム外務省が大きく関わった。帰国に際しては2週間の隔離が必要とされ、帰国するには航空チケット代の他にホテルの宿泊料が必要になった。どうしても帰国したい人はその制度を利用せざるを得なかった。だが、その制度を利用する際に多額の料金を請求された。日本円にして40万円も請求された人もいた。隔離ホテルとして5つ星ホテルが割り当てられて、1泊2万円程度の正規料金を要求された。この時期はどのホテルもガラガラだったが、どういうわけか隔離は5つ星ホテルに限定されており、そこにしか宿泊できなかった。
日本から緊急帰国した多くは技能実習生などで、金銭的に余裕のある人々ではない。そんな人々を強制的に5つ星ホテルに宿泊させた。通常であれば航空チケットの片道料金は数万円であり、また庶民が宿泊するホテルは1泊3000円も出せばよく、チケット代を合わせても10万円もあれば十分なはずだ。
ネット上に不当に高い料金を取られたと当局を非難する声が溢れかえった。これも現代ベトナムを象徴する現象である。緊急帰国した人々には若者が多い。彼らはネットに習熟している。ネット上の書き込みがこの事件摘発の端緒になった。
これは外務省の一部の人間が行った犯罪ではない。外務省が組織を上げて行った犯罪である。その結果、駐日大使や外務次官までが逮捕された。コロナ禍で就労先をリストラされ、またビザが切れるなどして困っている人々は緊急帰国を希望した。彼らの多くは農村出身であり決して豊かではない。ベトナム外務省はそんな人々から不当な利益を得た。それは許されることではない。ベトナムの世論が沸騰した。
だがベトナムのある知人はこの事件に対してそれとは異なった感想を漏らした。その話は現代ベトナムを理解する上で重要である。知人に言わせると一般に外務官僚は貧しい。それは汚職がしにくいからである。
ベトナムでは公務員の給与は安く、部長級になっても正規の月給は日本円で数万円にとどまる。それはハノイやホーチミンに住む庶民と同じ水準だ。ベトナムの公務員は何らかの汚職に関わることによって、生活を成り立たせている。許認可権を持つ役所は汚職しやすい。それはどの国でも同じであるが、土木・建設に関する部局や公安(警察)は多くの許認可権を持っており汚職を行いやすい。半分冗談で語られる、交通違反で捕まった場合は道端で警察官に賄賂を渡せば良いと言う話は、全部ではないにしろ、ほぼ事実と考えてよい。賄賂は現場警察官の貴重な副収入である。
そんなベトナムでも外務官僚は汚職に関わりにくい。外交官特権を利用して帰国する際にスーツケースに高額な商品を詰め込んで密輸するぐらいしか副収入を得る手段がない。そんな外務官僚が緊急帰国事業から利益を得ることを考えた。航空会社と組んで不当に高いチケットを売りつけ、また賄賂をもらって帰国者を強制的に5つ星ホテルに宿泊させた。コロナ禍で宿泊客が激減した時期であり、5つ星ホテルとしても外務省の提案は嬉しいものだった。外務省は高額のリベートを得た。
しかし外務官僚の誤算は帰国した若者がネット社会の住人であったことだ。しばらくするとネット上に汚職を糾弾する声が溢れかえった。ここからが現代ベトナムらしい。知人は、中国であればネットの検閲を強化して政府を非難する人間を逮捕するなどの強行措置に出るはずだと言う。だがベトナム政府は強くない。政府は常にネット世論を気にしている。ベトナムは欧米や日本のような民主主義国家ではないが、ネット世論が政府を動かすという意味では民主主義国家と言ってよいと言う。農村の貧しい若者がネット上で帰国便に絡む汚職を糾弾し始めると、政府はその世論に応えざるを得なくなった。
汚職が蔓延する原因は公務員の給料が安いからである。正規の給料だけでは幹部も庶民レベルの生活しかできない。しかし科挙の伝統があるベトナムでは公務員はエリートであり、この矛盾が汚職を引き起こしている。そのような状況を見て、誰もが公務員の給与を上げるべきだと考えるが、ベトナム政府は徴税能力が低く常に金欠状態にある。
先進国の徴税システムは長い歴史と紆余曲折を経て出来上がったものであり、同様の制度を開発途上国に期待することはできない。特にベトナムのように社会主義を謳ってきた国では、ドイモイ以降も庶民は、「税金は大企業や富裕層が払うものであり庶民は税金を納める必要はない」と考えている。
まあ少し皮肉な見方をすれば、庶民は税金を払っていない分、許認可が必要な際に公務員からたかられていると考えることもできる。ただ、このシステムは恐ろしく不透明でありかつ公平性を欠くものでもある。それは格差が拡大する原因になっている。
今回の事件からベトナム社会の一断面を窺い知ることができる。ハノイやホーチミンには高層ビルが林立し、見かけは先進国に近づいたが、ベトナム人の心の中は先進国にはほど遠い。そんなことをわれわれ日本人に教える事件だった。
ベトナム・ビングループ主席経済顧問
Martial Research & Management Co. Ltd.,
チーフ・エコノミック・アドバイザー
川島 博之 氏
1953年生まれ。77年東京水産大学卒業、83年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得のうえ退学(工学博士)。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、ロンドン大学客員研究員、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授などを経て、現職。
主な著書に『農民国家・中国の限界』『「食糧危機」をあおってはいけない』『「食糧自給率」の罠』『極東アジアの地政学』など。
近著として「日本人の知らないベトナムの真実」を執筆。
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