
連載: THAIBIZ NOW
公開日 2026.10.09
タイの鉄道が、静かに、そして大きく変わろうとしている。
2026年9月、東部チョンブリー県のレムチャバン港〜東北部ノーンカーイ間で、貨物列車の試験運行が行われた。新たに制定された鉄道輸送法に基づき、民間企業がタイ国鉄(SRT)の線路を使って列車を運行する「オープンアクセス(線路開放)」を検証するものである。
これまでタイの長距離鉄道は、SRTが線路を持ち、車両を調達し、列車を走らせ、駅を管理し、収入も赤字も一手に背負うモデルだった。都市鉄道ではBTSやMRTのように民間が運行・整備に関わる仕組みが定着しているが、都市間・長距離鉄道ではSRTの独占体制が続いてきた。
今回の試験運行は、単に民間の列車が走ったという話ではない。タイの鉄道事業モデルそのものが、「国がすべてを背負う鉄道」から「国がインフラを管理し、民間がサービスを創出する鉄道」へと構造転換しつつあることを示している。そしてこの変化は、日本の製造業や物流、商社にとって、大きな事業機会をもたらす可能性を秘めている。
民間に門戸を開く背景には、SRTの重い構造的課題がある。SRTは巨額の累積赤字を抱え、2025年も売上280億バーツ超に対し赤字は200億バーツ超に達した。運行収入約61億バーツに対し、運行関連費用だけで約76億バーツに上り、走らせるほど赤字が膨らむ体質から抜け出せていない。
さらに深刻なのが、運行を支える車両の老朽化だ。SRTが保有する全4,335両(2023年時点)の内訳を見ると、その危機的な実態が浮かび上がる。
タイ政府は1,000億バーツ以上を投じて幹線鉄道の複線化を進めており、すでに約8割が完了しつつある。立派な線路が整う一方で、その上を走る車両が足りず、壊れやすく、燃費も悪いという致命的なギャップが生じているのだ。古い車両の維持管理費は財政を圧迫し、新たな調達計画も国家予算や煩雑な承認手続きに阻まれて停滞してきた。
この状況を打開する切り札が「民間開放」である。民間が自ら資金を投じて車両を保有・運行し、SRTは線路使用料を得る。これにより、SRTは赤字リスクを抑えながらインフラ収入を確保でき、民間は創意工夫を凝らした輸送サービスを展開できるようになるという構想だ。
この転換に伴い、タイの鉄道市場にはかつてない規模の需要が生まれようとしている。SRTの長期調達計画では、今後10〜20年で車両総数を現在の4,335両から8,468両へとほぼ倍増させる青写真が描かれている。その投資・調達予算の総額は2,111億7,550万バーツ(約64億米ドル、約9,000億円超)に上る。
複線化の完成と線路の民間開放が連動することで、タイは世界各国の鉄道車両メーカーやシステムインテグレーターが熱い視線を注ぐ、東南アジア最大の成長市場へと浮上している。
この変化は観光列車など付加価値の高い旅客サービスにも好影響を与えるが、それ以上に大きな産業インパクトをもたらすのが「貨物輸送」だ。
タイは東南アジア大陸部の結節点に位置し、北はラオスを通じて中国へ、東はカンボジアやベトナムへ、西はミャンマーへ、南はマレーシア・シンガポールへとつながる地政学的な優位性を持つ。一方、現在の貨物輸送はトラックに極度に依存している。燃料高、ドライバー不足、渋滞、二酸化炭素(CO2)排出削減の観点から、鉄道へのモーダルシフトの要請はかつてなく高まっている。
特にセメント、建材、化学品、農産物、食品・飲料、日用品、自動車部品など、定時・大量輸送を要するBtoB物流で鉄道が果たす役割は大きい。
重要なのは、鉄道を単なる「公共交通」ではなく「企業の基幹物流インフラ」として捉え直すことだ。タイの大手財閥や製造・流通企業が自社の物流網に鉄道を組み込めれば、調達から保管、国内流通、周辺国への越境輸出までを一気通貫で最適化できる。従来の「もの売り」から、サプライチェーン全体を掌握する「こと売り(仕組み)」へのビジネスモデルの転換が可能になる。
ここで日本企業の大きな商機がある。
第一の強みは、タイ国内にすでに築き上げてきた製造業のサプライチェーンだ。タイには自動車産業を中心に、金属加工、鋳造、プレス、樹脂成形、電装品、制御機器、保全サービスなど、裾野の広い産業基盤がある。
台車部品、溶接構造、内装、空調、配線、ブレーキ部品など、鉄道車両の構成要素には、既存の自動車部品サプライヤーの技術・設備を応用できる分野は数多い。車両をすべて輸入するのではなく、部品調達や部分組み立て、メンテナンスを現地で内製化する流れができれば、タイ政府が志向する国内産業育成(ローカルコンテンツ化)の要請にも合致する。
第二の強みが、日本が培ってきた鉄道システムと運用のノウハウだ。鉄道は車両を売って終わりの産業ではない。過密ダイヤを遅延なく回す運行管理、事故を防ぐ安全基準、長期にわたり車両性能を維持する保守・オーバーホール体制、そしてそれらを支える現場の人材育成があって初めて成り立つ。
ハードウェアの価格競争にとどまらず、安全性・信頼性を軸に「運行・保守の仕組み全体」を提供するアプローチにおいて、日本企業への信頼は厚い。
タイ企業が運行を担い、タイ国内のサプライチェーンが部品や保守を供給し、日本企業が車両エンジニアリング、運行管理システム、保全技術、人材育成を提供する。これこそが、日タイ経済連携の次代を拓く協創モデルとなるはずだ。
ただし、これからの鉄道ビジネスを捉えるうえで、「政府やSRTからの発注を待つ」という従来の発想は捨てなければならない。
線路規格や運行ダイヤ、料金体系、許認可をめぐる政府・SRTとの対話は欠かせない。しかし民間に線路が開かれる以上、ビジネスの主役は「荷物を持つ民間企業」である。セメントや消費財、農産物を大量に動かすタイの大手財閥や物流大手に対し、自社の競争力を高める手段として鉄道の活用を提案できるかどうかが鍵を握る。
日本の商社、鉄道事業者、車両メーカー、総合物流企業、リース・金融機関が連携し、タイのパートナー企業とともに「運行、車両保有、リース・物流、保守サービス」を一体化した事業スキームを組成して、SRTや政府に提案していく。そうした先導的な姿勢が求められている。
今回の制度変更の本質は、線路そのものが新しくなることではない。すでにあるインフラの「使い方のルール」が変わり、市場メカニズムが持ち込まれることにある。
もちろん、安全責任の所在やダイヤ調整、線路使用料の適正水準など、制度設計上の課題は少なくない。それでも「8,400両・2,100億バーツ」という数字が示す通り、タイの鉄道が眠れるインフラから一大成長産業へと動き出そうとしている流れは確かだ。
電気自動車(EV)、データセンター、半導体といった先端分野に注目が集まる昨今だが、「陸の東南アジア物流の覇権を誰が握るのか」という観点で見れば、鉄道はいま最も戦略的なフロンティアの一つである。日本企業が築いてきた産業資産をどう結びつけ、新たな鉄道ビジネスの青写真を描けるか。その挑戦は、すでに始まっている。
参考:
ロントゥンマン(2026年4月22日)
プラチャチャットトゥキラット(2026年4月29日)
タイラット(2026年6月26日)
ザ・ネイション(2026年9月19日)

Mediator Co., Ltd.
Chief Executive Officer
ガンタトーン・ワンナワス
在日経験通算10年。2004年埼玉大学工学部卒業後、在京タイ王国大使館工業部へ入館。タイ国の王室関係者や省庁関係者のアテンドや通訳を行い、タイ帰国後の2009年にメディエーターを設立。日本政府機関や日系企業のプロジェクトをコーディネート。日本人駐在員やタイ人従業員に向けて異文化をテーマとした講演・セミナーを実施(講演実績、延べ12,000人以上)。


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