カテゴリー: ビジネス・経済
連載: 経済ジャーナリスト・増田の眼
公開日 2023.11.07
タイ政府とセター首相は、南部のタイ湾側のチュンポン市とアンダマン海側のラノン市を結ぶ陸上貨物輸送ルート「ランドブリッジ」計画を本気で推進しようとしているようだ。このルートはマレー半島で最も細い「くびれ」部分であり、長年「クラ地峡」と呼ばれてきた。ここに運河を掘れば、東南アジアの最重要海上輸送ルートとして混雑するマラッカ海峡を通過せず時間が短縮できるとして、古くは17世紀から運河構想が何度も浮上しては消えた。そして最近では非現実的な運河ではなく、貨物鉄道、高速道路、そして石油パイプラインを整備するというランドブリッジ計画に衣替えしつつある。旧日本軍も注目していた歴史のロマンを感じさせるクラ地峡での新たな開発計画が、中国の巨大経済圏構想「一帯一路」とも相まって、果たしてタイ政府が期待する経済の起爆剤となるのか。どのような弊害があるのか。タイ地元メディア報道から検証してみたい。
11月3日付バンコク・ポスト(1面)によると、タイのスリヤ運輸相は11月11~17日に米サンフランシスコで開催されるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議関連のフォーラムで、「ランドブリッジ」プロジェクトへの投資を呼び掛けるロードショー(投資家説明会)を始める計画を明らかにした。ロードショーは2025年第1四半期末まで各国で開催するという。同相はプラユット前政権時に南部経済回廊(SEC)構想の中核プロジェクトとして浮上したランドブリッジ計画の実現には新法の制定が必要で、2024年12月までに施行する方針だと説明。投資家は2025年4~6月に入札可能となり、タイ政府は2025年に落札者を決定した後、ランドブリッジの建設作業は2025年9月に着手、2030年10月末に完了させるとの行程表を明らかにした。
同相はさらに、総事業費は1兆バーツとした上で、このうち3000億バーツはチュンポン側の新たな深海港建設に、3300億バーツはラノン側の深海港の建設に充てるほか、1400億バーツは貨物輸送システムの開発に、2200億バーツは二つの新港を結ぶインフラ整備に充当すると説明した。
10月26日付バンコク・ポスト(ビジネス1面)によると、セター首相は25日の講演で、ランドブリッジはマラッカ海峡の混雑を回避することで、ロジスティクスコストを削減するとともに、輸送期間も6~9日間短縮できると主張。クラ地峡に運河を掘削する構想は40年前から浮上していたが、今回は運河ではなく、石油化学産業などの成長を支援するために石油パイプラインなどのインフラを整備する計画だとの考えを明らかにした。さらに、中国が国外最大の鉄道列車生産拠点の建設を望んでおり、ランドブリッジを使えば、インドや中東への輸出が可能になると指摘。「これは世界最大のメガプロジェクトの一つとなり、タイを投資魅力のある国にするだろう」とした上で、「このプロジェクトをわれわれの政権で実現させる」と宣言した。
バンコク・ポスト紙は10月30日付ビジネス1面で、ランドブリッジに関する詳細な分析記事を掲載している。同記事は、ランドブリッジは南部経済回廊(SEC)の戦略的プロジェクトとして1989年に承認された後、幾つかの政権が「ほこりを払う」試みをしてきたが、最近ではプラユット前政権下で運輸交通政策計画事務局が2022年に調査を完了させたとこれまでの経緯を報告。そしてセター首相が今月、中国とサウジアラビアを訪問した際に、このプロジェクトを鉄道事業者や投資家に披露したという。同プロジェクトは、①タイ湾側のチュンポン市とアンダマン海側のラノン市間の陸上を横断する高速道路②両市での深海港整備③120キロの複線鉄道―の3つに分かれる説明している。
そして同記事はこの計画が最初に提案されて以来、さまざまな批判も受けてきたとし、まず総事業費が1兆バーツに達するというコスト問題のほか、建設作業や完成後の経済活動に伴う環境と社会への悪影響への懸念を指摘した。国家経済社会開発委員会(NESDC)事務局とチュラロンコン大学が昨年11月に公表した最終リポートは、ランドブリッジ計画を実現する最も適切な方法は、地元開発と小規模投資だと指摘。新たなインフラ投資の代わりにタイ政府が2018年に承認した現行のSEC開発計画を推進し、有効活用すべきであり、中部や東部に比べて発展が遅れているタイ南部の所得格差是正に役立つだろうと助言している。
セター首相がランドブリッジ計画推進に前のめりになっていることにタイ経済界はどのように考えているのか。タイ工業連盟(FTI)のクリアンクライ会長は、ランドブリッジ計画は国家安全保障の懸念を高めるため、決して完成しないだろうと指摘。一方で、セター首相が最近、中国とサウジアラビアを訪問したことに言及し、「中国とサウジアラビアはこのプロジェクトに関心を持っている。その他の国、特に米国も投資機会を検討している」と述べた。特にサウジアラビアは中国に石油を供給する新しい輸送ルートを開設するプロジェクトへの投資を望んでいることを明らかにした。
また、プラユット政権下で首相府相を務め、かねてからランドブリッジ計画推進を主張してきたコープサック・バンコク銀行上級執行副頭取はランドブリッジのタイ南部への経済効果を強調した上で、特にインド、バングラデシュ、アフリカ、中東との貿易を拡大するラノン港の整備を訴えている。「もし、タイが西岸の港(ラノン港)を通じた海路で、インド、アフリカにつながれば、今後30~40年間のインドとアフリカの経済成長トレンドからタイは恩恵を受けるだろう」と強調。ランドブリッジ計画を段階的に推進する場合はラノン港整備から始めるべきで、この新港の需要が確認されれば他のプロジェクトも推進すべきだろうとの認識を示した。
一方で、ランドブリッジ計画が進んだ場合の観光産業への悪影響が懸念されている。同記事によるとサムイ島観光協会のラチャポーン会長は、このプロジェクトは地域の経済競争力を増すという良い動機がある一方で、南部スラタニ県サムイ島周辺の豊かな天然資源に悪影響を与える可能性があると警告。「観光業はサムイ島、パンガン島、タオ島などの島嶼地域の住民の大きな所得になってきた。毎年、観光業からの収入は1000億バーツに達する」とした上で、この地域での船舶の過剰な航行と石油の流出が、海洋生物や水産物成案、海岸へ与える悪影響を懸念していると訴えた。
このため同会長は、タイ政府は環境への影響評価を優先し、パナマ運河やスエズ運河の事例から学ぶべきであり、特に、サンゴ礁とダイビングで知られるタオ島などの人気観光地への影響を考慮した航路を検討すべきだと強調。また、ランドブリッジ計画は現在のマラッカ海峡の航路に打撃を与え、影響を受ける国がタイに貿易障壁を課す可能性を政府も考慮すべきだとの認識を示した。
筆者もバンコクに初めて赴任してしばらくたって、長年「クラ地峡」に運河を掘るという構想があることを知り、ぜひ現場を見たいと思った。それが実現したのが2021年春のこと。チュンポン市でレンタカーを借りて、ラノン市まで旅した。チュンポンからなだらかな勾配が続く国道4号を西に向かうと、ミャンマー国境から流れてくるクラブリ川が川幅を一気に増したところにある展望台に到着。そこから見る大河の河口のような雄大な地形にクラ地峡の地理的重要さを実感した。そしてそのすぐそばに旧日本軍が敷設したクラ地峡横断鉄道の終着駅を記念する公園があった。欧州列強が作れなかったクラ地峡輸送路を旧日本軍が初めて作ったらしい。もっとも鉄道というよりトロッコだったようだが。
改めて東南アジアの地図を見るとクラ地峡の重要性は分かる。それでも、スエズ運河、パナマ運河の重要性との違いは歴然だ。両運河とも、ここに運河を作っていなければ世界の海運、輸送は全く違ったものになっていただろう。マラッカ海峡がいかに混雑していたとしても、どうしてもクラ地峡に莫大なコストと環境負荷がかかる運河を掘らなければいけない経済合理性はない。それをランドブリッジ計画に変えたら、少しは合理性が高まるのだろうか。チュンポン、ラノンでコンテナ等の貨物を積み替えるコストと時間はどうなのか。改めて物流業界の専門家の分析と本音を聞いてみたいと思う。
もし、ランドブリッジ計画を存続するとした場合、先に紹介したコープサック氏のインド、アフリカへの貿易を拡大するためにラノン深海港の整備から着手すべきという主張には経済面での説得力はある。ただ、タイの本当の強みは何かを考えた場合、タオ島周辺の海、そしてアンダマン海側のタイで最もきれいな島として知られるシミラン島周辺の海が貨物船の運航急増で影響を受けた場合をどう考えるか。特に石油パイプラインを敷設し、石油タンカーが頻繁に往来するようになった時の石油流出事故により、タイの真の魅力が失われかねないのではと懸念せざるを得ない。
THAIBIZ Chief News Editor
増田 篤
一橋大学卒業後、時事通信社に入社。証券部配、徳島支局を経て、英国金融雑誌に転職。時事通信社復職後、商況部、外国経済部、シカゴ特派員など務めるほか、編集長としてデジタル農業誌Agrioを創刊。2018年3月から2021年末まで泰国時事通信社社長兼編集長としてバンコク駐在。2022年5月にMediatorに加入。
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