カテゴリー: ビジネス・経済
連載: 経済ジャーナリスト・増田の眼
公開日 2023.06.07
今号で紹介した前進党を中心とする連立8党の覚書(MOU)では、前進党の公約で最も注目された不敬罪(刑法112条)の改正と、現在の上院議員の制度を廃止は盛り込まれなかった。現制度下で前進党首班の連立政権を組むためには少しでも多くの上院議員を陣営に取り込まなければならないためやむを得ない判断といえる。ただ、前進党としてはこれらの信念を堅持し続けることが有権者への責務だろう。
一方、経済政策で注目されているのは、前進党の公約に入っていた最低賃金の引き上げと、産業界が要望している電気料金の引き下げなど電力改革だ。また、アルコール飲料など全産業での独占禁止、カンナビスの麻薬リストへの再掲載と法規制導入がどうなるかも興味深い。さらに、長期的には「所得向上、格差是正、公正な経済成長確保による経済の回復」が、民主主義政権が本当に実現した時の大きなテーマとなるが、その具体策はまだほとんど見えてない。
前進党のピター党首は5月23日のタイ工業連盟(FTI)との意見交換に続いて、5月30日にはタイ商工会議所(TCC)とも会合を持つなど、経済政策をめぐるタイ経済界との調整作業にも本格的に乗り出している。ピター党首のメディア株保有問題という不透明要因が浮上しているが、経済界も反軍政の前進党首班の連立政権の可能性に準備しつつあるともいえる。6月1日付バンコク・ポスト(ビジネス1面)によると、TCCのサナン会頭は30日の会合後、前進党幹部に対し新政府の最優先事項は予算配分の継続性だと訴えたほか、電力コスト高、賃金問題、ビジネス環境の改善、法制度改革に取り組み、タイの競争力を高めるよう提案したことを明らかにした。
焦点となっている最低賃金を450バーツに引き上げるとの前進党の公約についてサナン会頭は、「両者は若干の異なった見通しを持っているが、その差は大きなものではない」と強調。両者は最低賃金の引き上げでは合意しているが、引き上げ幅と時期ではさらなる交渉が必要になる可能性があるとの認識を示した。一方、ピター党首も会合後、経済界と新政府は最初に適切な賃金水準について交渉する必要があると指摘。さらに、最低賃金引き上げの影響について、前進党の調査では賃金引き上げは常に物価に影響を与えるとは限らない一方で、人々の生活の質を改善し、所得を向上させると訴えた。
一方、FTIは5月29日、「連立政権とMOUについて産業界はどう考えているか」をテーマに、会員企業252社向けに行った調査結果を公表した。1番目の「連立政権樹立に向けて合意したMOUのうち、どの政策の実行加速を望むか」との質問に対し、「生活コスト削減とエネルギー安全保障に向けた発電システムと価格算定の見直し」が75.8%とトップだった。2位は「透明性の高い政府のシステムと文化を創出し、汚職問題を解決する」で71.4%、3位は「国家歳入を増やし、格差是正の原則を重視して経済を再建する」で65.9%だった。
また、連立政権のMOUに入れてほしい政策はとの質問に対する回答のトップは、「将来に備え、新たなチャンスを創出するために科学、技術、研究、イノベーションの発展促進」で67.9%だった。さらに、新政権はどの課題を目標にすべきかとの質問には、「政府を先進国並みに利便性と透明性を向上させるための法制度改革」が72.6%とトップだった。
「多くのタイ人がなぜ現在の経済発展モデルにフラストレーションを感じ、変革を求めているのかを理解することから話を始めたい。20年前には1日当たり最低賃金は160バーツだったが、カレーライスを8皿買えた。しかし現在の最低賃金350バーツではカレーライス7皿しか買えない。20年前、タイの預金者の87%が銀行口座に平均で4796バーツ持っていた。2023年3月時点では平均口座残高は4121バーツに減少している」
フリーエコノミストのチャートチャイ・パラスック氏は、6月1日付バンコク・ポスト紙(9面)の「経済新時代に備えて」というタイトルの寄稿記事で、タイ経済の現状をこう説明する。そして「10年前には農家債務は1兆バーツ、家計債務は10兆バーツだったが、現在、それぞれ50%増の1.5兆バーツ、15兆バーツに膨らんでいる」と指摘。「大半のタイ人の預金は減少し、購買力は低下、債務が増加する一方で、米フォーブス誌の長者番付にランクインするタイ人は増えている。経済成長優先の政策はもはやこの国には不適切だ」と問題提起する。
そして、人々は所得格差是正、購買力の拡大、福祉の拡充に向けた変化を求めており、「前進党はこうした変革期待に応え、結果として選挙に勝利した」と分析。しかし、「前進党の経済政策は“反”成長だと批判され、財務相候補は資格に疑問を持たれている。国民や投資家の懸念を和らげない限り事態は悪化し、資本逃避が起こる可能性がある」と警告。「成長神話から所得平等・公正な競争へ宗旨替えをしたエコノミストとして」経済政策に関して下記のような4つの提案をしたいという。
(1) マクロエコノミストを含む経済チームを拡充し、国内総生産(GDP)成長パターンの算出・設計する。
(2)政策導入後のGDP伸び率予想など経済のビッグピクチャーが必要だ。国民は賃金の大幅上昇のマイナス面や福祉拡充のための増税というマイナス面しか見ていないからだ。
(3)政権移行期には、企業は賃金の27%上昇(最低賃金を450バーツにした場合)に耐えられないため、スムーズな移行措置を導入する必要がある。
(4)前進党は一般市民のフィードバックに耳を傾ける必要がある。有権者の支持を得たら政府は何でもできると考えることは重大な誤りになるからだ。
同氏はその上で、経済の「ビッグピクチャー」を策定し、国民に提示すべきだと強調。国民は生活の質の向上と引き換えに経済成長の一部をあきらめることを理解することが求められ、「成長至上政策から所得平等志向への転換は歴史的な仕事になる」と結論付けている。
「成長神話から所得平等・公正な競争へ宗旨替えをしたエコノミスト」と自嘲気味に語るチャートチャイ氏の本音は何か。タイ・バンコクで暮らす日本人から見てもバンコクの一部富裕層のレベルは日本人駐在サラリーマンとは桁違いだと気づく。一方でバンコクだけ見ても、繁華街のすぐ隣にもある一般庶民の居住区、特に小さな運河沿いのバラック建ての住まいなどを見て、改めてタイの貧富の格差に驚き、タイが表面的な経済発展をすればするほど貧富の格差は拡大していっているのだろうと感じる。米国でも貧富の差は激しいが、超富裕層はベンチャー企業家含め個人の才覚でビジネスに成功し財を成した人が多いが、タイの場合、財閥家も含む既得権益層が着実に一族の富を膨らませていっているように見える。そこには、所得税、相続税、不動産税などの税制の後進性もあるだろう。既得権益層の富の一部を低所得者層に移転できるような仕組みを導入できるのだろうか。
「タイランド4.0」にしろ、「BCG経済」にしろ、一見はチャートチャイ氏の言う「ビッグピクチャー」だが、高度成長を持続して、大手財閥企業を含む既得権益層の富を拡大するキャッチフレーズでもある。企業が利益を拡大すること自体は資本主義経済の本質ではあるが、その成果を少しでも、低所得者層を含む一般国民に分配する仕組みを本気で作ろうとしているのか。戦後日本が「1億総中流」と揶揄される富の分配をできた仕組みは「年功序列」に代表されるサラリーマン社会であり、農業協同組合が筵(むしろ)旗かかげて要求した「生産者米価」という市場価格を無視した高値維持策など、都市部の富を地方に移転する仕組みを作ったからで、先進国になる原動力となった。ピター氏が率いる前進党が本当に政権を樹立できるのかはまだ全く不透明だが、仮に今回、政権を取れ、持続的な政権になった場合、8党MOUが謳う「所得向上、格差是正、公正な経済成長確保」をどうやって実現するのか、岩盤となる既得権益に切り込めるのか。その具体策をウォッチしていきたいと思う。
THAIBIZ Chief News Editor
増田 篤
一橋大学卒業後、時事通信社に入社。証券部配、徳島支局を経て、英国金融雑誌に転職。時事通信社復職後、商況部、外国経済部、シカゴ特派員など務めるほか、編集長としてデジタル農業誌Agrioを創刊。2018年3月から2021年末まで泰国時事通信社社長兼編集長としてバンコク駐在。2022年5月にMediatorに加入。
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