カテゴリー: バイオ・BCG・農業
連載: 経済ジャーナリスト・増田の眼
公開日 2022.11.01
今号のFeatureで紹介したリブ・コンサルティングのリポートと担当者インタビューは、日米で農業取材を経験した筆者にとって非常に興味深い。そもそも農業をビジネスとして考えた場合、従来手法ではまったく儲からず、政府の補助金がないと成り立たない場合が大半だ。それでもタイや日本に限らず、常に国民の心の中で極めて大事な仕事だという思いがあり、政府の補助金支給にある程度納得している。一方、最近はタイを含め各国で農業と周辺分野への新規参入、スタートアップ企業が増加している。ビジネスとしては相変わらず厳しいが、皆、農業関連ビジネスに魅力を感じている。そして個人的には農業はビジネスの視点だけでなく、各国の政治・社会の基底を浮かび上がらせることに興味を持っている。
リブ・コンサルティングのダーリン氏は今回のインタビューで、タイの農業生産性の低さについて「2019年時点の農業生産性で、タイは1人当たり3.2ドルなのに対し、米国は100.1ドルと約30倍、日本は17.8ドルと5倍以上だ」と説明してくれた。この数字は農業に関心のある人なら納得するデータだ。しかし驚くのは、同氏が別のリポートで、世界銀行などのデータを引用、タイの農業生産性は、中国はもとより、ベトナム、インドネシア、ラオス、ミャンマーより低いと指摘していることだ。
タイは少なくとも東南アジアでは先進国入りを目指す最前線にいる国で、バンコクの経済発展は目覚ましい。農業も近代化が着実に進んでいると思っていたが、ラオス、ミャンマーより低いというデータは何を意味するのだろうか。
ダーリン氏は同リポートで、「タイの農家の大半はいまだに手での田植え、鎌による刈り入れなど人力に頼っている。一方、ベトナムではドローンなどスマート農業も始まっている」と報告している。私自身もタイで観光客向けのパフォーマンスではなく、当たり前のように手で田植えをしている光景を見た時には驚いた。
日本の農業生産性向上の取り組みは例えば、各県の農業試験場での地道なコメの品種改良に象徴される。特に寒冷地に耐えられる新品種開発の長年の努力を知ると頭が下がる。一方、米国の農業生産性向上は全く違うレベルだ。米国シカゴに駐在していた時に、広大なトウモロコシ、大豆畑が続く米中西部の農家に何度か取材に訪れた。初めて米国の農家を取材した2005年当時でも、巨大なハーベスターにはGPSが装着され、効率的な収穫作業に取り組んでいた。米国の農家は、シカゴの穀物先物相場を毎日ウォッチしながら、来年の作付面積をどうするかを考えていた。
タイの農業生産性の低さは何を意味するのか。結局、単位当たり収量を極力上げなくても生活はしていけるということは、タイはそれだけ作物の生育環境に恵まれた豊かな国だという裏返しの話としか思えない。新型コロナウイルス流行ピーク時にはバンコクに出稼ぎにきていたイサーンなどの地方の労働者らは皆、自分の田舎に帰った。現金収入がなくなっても、自給自足的な地元の豊かな食材で生きていくことができるということだろう。生産性をそれほど向上させなくても、タイは農産物の輸出大国になっている。
タイで農業関係の取材をしていると必ず出てくるのが、「足るを知る経済(セタキット・ポーピアン)」という言葉だ。仏教思想に基づきプミポン前国王が提唱したとされ、1997年のアジア通貨危機後にはタイ政府の経済開発計画にも取り入れられた。特に農業分野では、自給自足型の小規模複合経営農家の基本思想となり、実践する取り組みもあったようだが、その後、広く普及したとの話は聞かない。いわゆる先進国が推進する工業型農業と正反対の方向と言っても良いだろうし、最近ブームとなっているスマート農業とも違うコンセプトだ。
バンコク・ポスト紙は6月6日のアジア・フォーカス欄で、「アグリテック」の特集記事を掲載している。同記事は、「気候変動、環境悪化、農家の高齢化、労働力不足、農地不足、フードロス」などが農業の課題だと指摘。これに対し、タピオカでん粉などを製造・販売するタイ・ワー(TWPC)のホーレンワー最高経営責任者(CEO)は、こうした危機への対策として農業生産性の向上、食品サプライチェーンの強靭化などが重要だと強調。「タイは食品原料が豊富で、生物多様性に恵まれ、安全性と高品質の食品加工産業がアジア太平洋地域では最も発展している」と述べ、タイ政府がアジア地域における食品とアグリテックのハブを目指す取り組みを評価した。
同記事はさらに、世界がコロナ禍から復活する中で、消費者の需要の変化が農業部門にも新たなトレンドを生み出していると指摘。「遺伝子組み換え作物(GMO)のような一部の技術革新は論争が続く一方、合成生物学(SynBio)などの新しい技術に関心が集まっている」とし、この分野のスタートアップ企業を紹介。さらに、農業サプライチェーンでデジタル技術が導入され始めているとし、タイ・ワーが、TJRIニュースレターの8月23日号でも紹介した農業IT企業Ricultのプラットフォームを導入していると報告している。
今号のニュースピックアップでも紹介した電源機器大手デルタ・エレクトロニクス(タイランド)のスマート農業参入にも見られるよう異業種が農業分野に熱視線を送っている。一方で、10月3日付のバンコク・ポスト紙(3面)は、「Eco-farming」という別のトレンドを紹介している。同記事は「農業部門は世界の温室効果ガス(GHG)排出の4分の1以上に責任があり、環境専門家らはこの危機を解決する最良のソリューションはEco-farmingであり、農業システムを改革することだと主張している」と説明。「工業型農業技術は人類が近代的生活をするための大量の食料生産を可能にした。しかし、単位当たり収量を引き上げることで、環境コストは高まっており、食料生産方法を見直す必要がある」との持続的農業の推進を訴える専門家の意見を紹介している。
結局、農業に対しては、人によりそれぞれさまざまな価値観があり、農業・食料生産システムも多様なあり方を模索し続けることになるのだろう。もし将来本当に世界中で食料危機が起こるなら、農業生産性を一段と高める必要があるのかもしれないが、日本の減反政策含め、恒常的に生産過剰の国も多い。一方、地球温暖化問題で持続可能性が産業界でも主要課題となり、消費者が有機農産物など環境保全を重視するトレンドの中では持続可能な農業が求められていくだろう。米国シカゴで農業取材をしていた時、米中西部の典型的なトウモロコシ・大豆の巨大農場のすぐ隣で有機農業を実践している小規模農家の話を聞いたときに、農業の奥深さに感銘を受けた。タイでも多様な農業が共存できるだろうか。
THAIBIZ Chief News Editor
増田 篤
一橋大学卒業後、時事通信社に入社。証券部配、徳島支局を経て、英国金融雑誌に転職。時事通信社復職後、商況部、外国経済部、シカゴ特派員など務めるほか、編集長としてデジタル農業誌Agrioを創刊。2018年3月から2021年末まで泰国時事通信社社長兼編集長としてバンコク駐在。2022年5月にMediatorに加入。
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