ArayZ No.142 2023年10月発行なぜタイ人は日系企業を辞めるのか?
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公開日 2023.10.09
本記事の解説セミナーを開催した様子をYoutubeにアップしています。
日系企業から競合に人材が引き抜かれている――。
そんな話を頻繁に耳にするようになった。ジョブホッピング社会と言われ、もともと日本よりも転職しやすいと言われるタイだが、近年起こっている離職はこれまでとは異質のものだ。
日系企業はこの事態をどのように捉えて、どう対策を打てばよいのだろうか。「タイでの変革は、むしろ日本を変える絶好のチャンスでもある」。そう語るのは東南アジア拠点の人事コンサルティングファームAsian Identityの中村勝裕氏だ。同氏に今タイで起こっている問題の紐解きと、打開策について解説いただいた。
目次
「タイは日系企業にとっての203高地だ」。これは以前、私がタイで働き始めたころ、とある先輩ビジネスマンが発した言葉である。ご存じの方も多いと思うが、203高地とは日露戦争の旅順争奪戦における激戦の場となった場所の名称だ。この地を攻略する否かで以降の戦局が大きく変わる、まさにキーポイントであった。そんなかつての戦争における最重要地点になぞらえて、いかにタイという場所が日本にとって重要な国であるかをその先輩は表現したのだった。
筆者がタイに関わってビジネスをするようになったのは2013年。10年ほど前である。当時から「トップ大学の学生が日系企業に入社したがらない」という傾向はすでに始まっていた。これは何とかしなければという想いでタイで会社を立ち上げて、リーダー育成、人事コンサルティングの仕事をしてきた。そんな中、クーデター、国王崩御、コロナなどが起こった激動の10年を通じて、タイの政治経済は大きく変わり、そしてまた日系企業の位置付けはさらに大きく変わった。
海外からタイへの直接投資額(JETRO統計)は、2014年時点では日本が1,819億バーツと投資全体の37.6%を占めていた。ところがそれ以降、17年は897億バーツ(同39.5%)、20年は643億バーツ(同25.5%)と徐々に減少傾向にある。その間、中国は14年時点の382億バーツ(同7.9%)から、20年時点では558億バーツ(同22.1%)と伸びを見せており、日本と肩を並べる存在感になってきている。中核となる自動車産業においてもBEV(バッテリーEV車)が23年1~8月時点で4万3千台販売されており、その大半が中華系メーカーである。国内販売台数が年間70~80万台のタイにおいてEVは既に一定のポジションを得つつあると捉えるべき状況である。全方位外交に長けたタイ政府の後押しもあり、24年には年間15万台の生産を予定するBYD社の工場が稼働予定となっている。今後もタイにおける日系企業と中華系企業の争いは激しくなるだろう。
人口7,160万人とASEANの中では中位に位置するタイではあるが、一方で日系企業の拠点数では「5,856社」と中国、アメリカに次いで世界三位のポジションに位置する(外務省統計、2021年)。加えて分厚いサプライチェーンを持ちメコン地域やインドへの橋頭保として、タイには単体の経済規模以上の重要度がある。冒頭の「203高地」の意味はそんなところにもあり、依然として日本経済にとって重要な意味を持つ国と考えるべきだ。ユニクロやスシローの躍進などサービス業での明るい話題が多い一方で、日系企業の大多数を占める製造業では人材の引き留めに苦慮している。いったい何が起こっているのだろうか。
伝統的に日本企業は「ヒトで勝つ」ということを最大の強みとしてきた。かつて松下幸之助は「松下電器は人をつくっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくっているのです。」という言葉を残した。1929年の世界恐慌が起こった際、松下幸之助は「当社は一人の首も切らない。その代わり全員で営業して在庫を売りさばこう」と指示を出し、経営危機を乗り切った。この松下電器の姿勢が昭和の企業経営のロールモデルとなり、終身雇用と年功序列をベースとしたいわゆる「大家族経営」が日本中に広がって行った。こうした伝統的な仕組みは、バブル崩壊以降は逆に成長の足かせとなり、様々な人事改革が行われてきた。令和の今現在も、「メンバーシップ型組織からジョブ型組織へ」という掛け声のもと、改革は進行中である。
一方、タイ現地法人はどうであろうか。日系製造業の進出が加速したのは1985年のプラザ合意以降であり、90年代に進出した企業が多い。労働市場はジョブ型である一方、集団主義の国民性のタイはメンバーシップ型組織と相性が良く、日系企業の経営は比較的うまく機能した。しかしその後30年以上が経つが、進出当時の古い仕組みが残ったままのケースが多々見られる。例えば人事評価一つとっても、私がタイ現地法人にお邪魔すると、日本ではもう長年見かけないような評価シートが残っていて驚くこともある。これは無理もないことである。人事の仕組みを改革するには適切な知見と十分な時間が必要である。タイに赴任する駐在員は製造、経理、営業出身の人材が多く、人事の経験を直接的に持っている人は多くない。また、一般に制度改革は「最低でも3年かかる」と言われ、社員の反発を受け止めながら、強い意志とリーダーシップで改革を行う必要がある。それは限られた任期の中でリスクを取って取り組みづらいテーマである。
このような事情により日系企業の変革スピードは遅れ、「体質が古い」とタイ人から思われている。タイ人材の「日系企業離れ」はこのような「日系企業のマネジメント変革の遅れ」に加えて、「中華系企業・タイ系企業の台頭」、そして「コロナによる従業員の意識変化」などが複合的に絡んで加速しているのである。
ある中国人ビジネスパーソンは、私に向かって「中国の企業はどんどん日系企業から優秀なタイ人スタッフを遠慮なく引き抜いていきますよ」と面と向かって言い放った。日系企業の社員はよく教育され、規律が高く、そして給与が安い。彼らが日系企業の社員を狙うことは想像に難くない。いち日本人として、それは起こしてはならないと感じる。ここから先の5年が勝負である。
本特集は、過渡期にあるタイの日系企業で、主に「人事・組織」の観点からいま何が起きているのかをより具体的に明らかにし、処方箋を見出すためのものである。第一部では、「タイ駐在員座談会」の議事録をもとに、いまタイ組織で起こっていることをリアルにレポートする。第二部では、長年タイに関わる識者のコメントをもとにしながら「突破口」を考察してみたい。最後に第三部では課題を整理するとともに、「強みをどう生かすか」という視点から今後に向けた提言をまとめてみたい。
タイ組織で起こっている実態を把握するために、製造業管理部の3人の日本人駐在員の方々と覆面座談会を開催してみた。以下、象徴的なコメント、および筆者のコメントを交えながらお届けする。
最近、若手タイ人の離職が多いと聞きますが、皆さんの会社ではどうでしょうか。
A氏:若手のタイ人スタッフがポジションアップを待てなくなっている傾向が強いです。何ができたら昇格するのかがはっきりしていないので、キャリアパスが見えづらい現状があります。技術系の会社なので2、3年で大きな仕事を任せるのは難しいのですが、一方で「教育」と称して雑用をやらせているだけのケースも多くあり、優秀な若手が1年も経たずに辞めていくことも起こっています。弊社では今、キャリアパスの明確化を進めています。
B氏:最近の若者は、日本企業に勤めていることが自慢にならないので、Facebookの勤務先をあまり書かないみたいです。ファシリティが古い場所も多く、SNS映えもしない。誰もが知るブランドやクールなスタートアップに勤めて、そこの写真をアップすることが重要ですからね。当社も工場のリノベーションをして少なくとも綺麗で快適なオフィスにするよう今掛け合っていますが、簡単には投資許可は下りません。
C氏:やはり給与が課題です。日系企業との比較ではそこそこの水準でも、外資系企業とは大きな差がついています。うちは基本給が低くても様々な手当てが付いているので総合的にみるとタイ企業、欧米企業と遜色なかったりもするのですが、タイ人からは手当てと基本給は別と見られてしまう。また、長期勤続が前提の制度になっていて退職給付の部分がやたら手厚くなっているのですが、20年前ならともかく今はそんなに長く働くつもりで勤務していませんから、お金を有効活用できていないと感じます。日本との比較ではなく、現地で競争力あるベース給与の設定が急務です。
A氏:マンネリ化が原因で辞めていくことも多いですね。うちは日本では大手企業で数千人の従業員がいても、タイは200人程度と中小企業の組織規模です。そうすると同じ仕事をずっと担当することになり、組織もタコツボ化しやすい。ジョブローテーションを嫌がるので日本のように異動で目先を変えることも難しい。
それでは、中堅社員や管理職の方はどうだろうか。
B氏:残念ながら、優秀な中堅社員も退職していきます。今残っている人は、良くも悪くも安定志向のおとなしい人。日系企業は“責任を求められないのが魅力”と思われているフシがあります。
C氏:先日も優秀な人材が一人退職しました。理由は“日系はスピードが遅い”ということでした。タイ企業を相手にしたビジネスでは即断即決が求められますが、弊社では現地で決済できる金額がかなり低く、日本からの承認プロセスを経る必要があります。日本人駐在員ですら決定権はありません。本社への申請書類の差し戻しが4回、5回にわたることもあり、タイ人スタッフも疲弊しやる気を失います。本当はもっと現地で決めた方がよいこともあると思うのですが、過去慣性でそうなっている現状があります。
A氏:中途で人材補強を図るのですが、優秀な候補者ほど、期待成果と権限について質問してきます。外資系企業ではポジションごとに予算権限も明確になっていますが、弊社ではそのような仕組みが無いので、候補者が納得できる説明を用意できず逃げられてしまいます。
B氏:MD(社長)が3年に一回程度変わりますが、そのタイミングでローカルスタッフも辞めます。せっかく良いMDが組織を前向きに変革したのに、新たに赴任したMDが物足りないと、タイ人スタッフはさっさと見切りをつけます。優秀なタイ人は社外に人脈もありお誘いもあるので、そちらに移ることはそんなに難しくありません。
ここまでの会話から、タイ人社員の退職理由は「キャリアパス」「給与」「意思決定スピード」「上司」であることがわかる。こうした問題はもともと存在していたが、タイ企業や中華系企業など魅力的な転職先が以前に比べて増えたこと、そしてコロナを引き金にして会社と従業員の距離感が生まれたことが相まって退職に繋がるケースが増加している。
それでも、「タイ人は人につく」と言われるように魅力的なリーダーがいれば忠誠心高く仕事をしてくれる。日本人リーダーについては、どのような課題があるだろうか。
B氏:以前いたMDの話です。直下にいる駐在日本人と話すだけで、タイ人マネージャー陣と全く話そうとしない。雑談もしないし、仕事の情報収集もしない。困った時に、通訳を通じて報告を求めるだけ。そんな姿勢なのでタイ人からMDに対する信頼は全く無かった。日本では優秀だった方が赴任しても、海外で求められるマネジメントの質と合っていないということがあります。特に課題は50歳以上で、日本が絶好調だった時のマインドで仕事をする人が失敗しやすい。あまりにひどい赴任者は帰国させられるのでPDCAは回っていますが、全体としてはまだまだです。
C氏:スキル面では、ローカルスタッフへのフィードバックの仕方が下手です。「なぜ、なぜ」と追求するばかりでモチベーションを下げてしまう。あるいは摩擦を恐れてフィードバックを適当にしてまい、実際の評価の際の評価ギャップが起こり辞めてしまうということが起きます。英語でのフィードバックは難しいですが、言語力よりもヒューマンスキルが課題だと感じます。
A氏:若手駐在員では、タイ人の能力との逆転現象も起こり始めています。よく“昔の日本人はもっと優秀だった”とタイ人は言います。20年以上現場経験を積んできたタイ人の上に若手日本人が上司として赴任したり、何もできないトレーナーを送り込まれてタイ側が困惑するということもあります。この人にはどういうスキルがあって、どういう役割を担うために来ているのか。優秀なタイ人ほどそれを質問してきて、答えに窮することがあります。
C氏:駐在員もコロナで人数が減り仕事が増えて、必死で仕事をしながらも報われない気持ちを持っています。懸命に海外拠点を立て直し、業績を上げて日本に帰ったら、何事も無かったように元の日本の課長ポジションを提示されて、失望して転職していった人がいます。タイでは経営者として振舞わないといけない一方で、日本との会議になるとミドルか、下手したら若手扱いされる。こうした板挟みに苦しんでいる人が多いです。
A氏:そもそも海外駐在員の希望者が減っています。日本でサーベイを取ると「今は考えられない」という回答が多い。そのため、必ずしも適性が無い人を送り込むか、あるいは赴任期間を短くして送り込まざるを得ない。若手に“興味ない?”と聞くんですがあまり色よい返事が無いんですよね。採用段階から希望者が少ないので日本全体の課題だと感じます。日本企業がこれからも海外でお金を稼いでいかないといけない現状と逆行しています。
駐在員も悩みを抱えながら懸命にマネジメントをしている。一方で、海外拠点と本社のコミュニケーションにもどかしさを覚えることも多そうだ。そこで、本社と現地の関係性についても聞いてみた。
B氏:本社は現地のことがわからないから情報収集のために報告を求めるのですが、その業務に追われ続けるという部分があります。とりあえずデータを集めて提出してもそれが使われないことも多く、もう少し現地で稼ぐための仕事に時間を使わせてほしいという想いがあります。
A氏:“本社で働き方改革をしたので、タイでもやれ”など、現地の文化も法律も風習もわからないままに一方的な提案をされると戸惑います。特に、海外のことをわかっている風の役員はより手ごわくて「俺がいたときはこうだった」という論調で命令が降りてくる。ですが、かつてのタイと今のタイは全然違いますし、日系企業のポジションも全く違います。時代は大きく変わっているのですが、日本にいると変化を感じ取りづらいと思います。
C氏:とにかく稟議がネックです。稟議が必要な申請基準の金額が引き下げられました。タイのMDでも“なんでこの程度の決裁権限しか持ってないの?”という金額です。これまで現地側の権限でやれていたことが、本社への稟議が必要になってしまい大きく意思決定がスピードダウンします。英語で稟議書を上げたらダメ、と言われるので稟議の仕事は日本人しかできません。正直、稟議書を書かせるという非効率な仕事をローカルスタッフにやらせたくはない。なので日本人が頑張って巻き取っているんです。
B氏:駐在員の中には“本社の言うことを聞かない勇気”と言っている人もいます。現地でお金を稼ぎ、優秀な現地スタッフを繋ぎとめるためにはそういう意識も時に大切です。本社に嫌われても良いから、その代わり最高の利益という形で結果を出す。その事業会社は実際に良くなっていますが、そういう人はそれ以上偉くなることは無いんですよね。
A氏:私は本社にもいたので少し本社側の立場にも立つと、現地法人がいい加減な経営をしていた過去もかなりあったんです。特に、現地側でちょっと勉強すればわかるような法規制を理解せず経営して問題になったとか、しっかりしろよと思うこともあった。「俺は営業しかわからないから、細かいところは本社で面倒見てよ」という意識のMDもいます。
一つの現地法人でそう言うことがあると、本社の関与を強めざるを得なくなるんです。基本は、現地が主体性と責任をもって取り組み、本社は支援する立場。そういう関係性が理想です。
最後に、優先的に変革すべきはどのような領域なのか、考えを聞いてみた。
A氏:駐在員制度の変革です。マネジメントポジションとして赴任するのはNo.1、No.2程度に限る、あるいは特殊な技術を対応する人に限るべきです。残りのマネジメントはローカルに委ねる。「タイではこうなんです」というのを説明する役回りは日本人しか担うことはできないので、若い人はジャパンデスク的な役割を担ってもらいながら経験を積んでもらう。赴任の条件は、肩書や年数ではなく、能力と適性でアサインを決めるべきです。そして、どういうミッションを持って送り込むのかをもっと明確にすることが必要だと思います。赴任者の給与も日本の給与に手当をつけるのではなく、海外拠点のジョブに対する給与に設定するべきです。
B氏:タイにおける人事制度の改革です。給与制度は、本気で変えようと思えば変えられます。賞与の月数を変えれば総額は変わらないのでベース給与を上げられます。「家族手当」などライフスタイルに応じた手当は、基本給に含めて「手当なし」にするのが、ダイバーシティの原則にもマッチします。つまりパフォーマンスベースの給与に揃えるということです。また、退職面談などを聞いていると、問題は給与額そのものよりも、基準のあいまいさやフィードバックの無さにあります。そうした制度全体の整備が必要です。
C氏:責任と権限の見直しです。本社から現地法人に求めているミッションは何かを明確にし、決裁権限を事業部と現地法人の間で交渉する。どこまでを管理してどこまでを任せるかの線引きを決めて、そこから先は任せることで現地側も主体的になれます。その前提としては、「日本が正しい」という考え方からの脱却も必要だと思います。すでに日本人よりも東南アジアの人材の方が優秀なことも少なくありません。何かあったら日本人が出てきて日本基準で決めてしまうという習慣を辞めないと、現地人から愛想を尽かされてしまいます。ローカルスタッフからむしろ学ぶという姿勢を持たないとますます苦しくなるのではないでしょうか。
ArayZ No.142 2023年10月発行なぜタイ人は日系企業を辞めるのか?
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株式会社アジアン・アイデンティティー 代表取締役
中村 勝裕 氏(愛称:ジャック)
愛知県常滑市生まれ。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒業後、ネスレ日本株式会社、株式会社リンクアンドモチベーション、株式会社グロービス、GLOBIS ASIA PACIFICを経て、タイにてAsian Identity Co., Ltd.を設立。「アジア専門の人事コンサルティングファーム」としてタイ人メンバーと共に人材開発・組織開発プロジェクトに従事している。
リーダー向けの執筆活動にも従事し、近著に『リーダーの悩みはすべて東洋思想で解決できる』がある。Youtubeチャンネル「ジャック&れいのリーダー道場」も運営。
人事に関するお悩み・ご質問をお寄せください。
「タイ人事お悩み相談室」コラムで取り上げます!→ [email protected]
Asian Identity Co., Ltd.
2014年に創業し、東南アジアに特化した人事コンサルティングファームとして同地域で事業を展開中。アジアの多様な人々を調和させ強い組織を作るというビジョンの実現に向けて、"Asia is One”をスローガンに掲げ、コンサルタントチームの多様性や多言語対応を強みに、東南アジアに展開する日本企業を中心に多くの顧客企業の変革をサポートしている。
◇Asian Identityサービスサイト
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