過去・現在から展望を見据える タイの自動車産業事情

過去・現在から展望を見据える タイの自動車産業事情

公開日 2016.03.22

タイの自動車産業は、1960年代の日系自動車メーカー進出を契機に発展してきた。
当時から現在に至るまでの動きを振り返るとともに、生産、輸出台数の推移や日・タイ政府が行う協力プロジェクトなど、業界事情に追る。

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国外メーカー受け入れから始まった自動車産業形成

タイは自国で自動車製造を行うという国民車構想を持たず、国外の自動車メーカーを受け入れることで産業形成を図ってきた。日系自動車メーカーの進出は、1957年にトヨタ自動車が販売拠点となるバンコク営業所を置いたことに始まる。
タイ政府は1960年に新産業投資奨励法を制定、民間企業主導による輸入代替工業化を開始。自動車産業を投資奨励業種に制定し、自動車組立による産業保護政策を展開した。

62年には新投資奨励法が改正され、BOI(タイ国投資委員会)から投資恩典の付与が開始されたことに加え、部品単位で輸送して現地で組み立てるノックダウン生産の一種である、CKD部品(コンプリートノックダウン、現地組み立て部品)を輸入して国内で自動車を組み立てる場合、輸入関税を完成車に比べて半分に引き下げた。また、国産化部品製造のための機材・設備の輸入関税に対しても免税特典が与えられた。

タイは直接投資に優遇措置を与えるなど、国外メーカーを受け入れることで自動車産業を育成する方法を選択。
しかし、雇用創出や法人税収入を除けば国外メーカーの参入が自国にもたらすメリットは少ない。そこでタイ政府は、部品輸入関税の適用やタイのローカル部品メーカー活用を要求し、ローカル部品メーカーを育成するインセンティブが図られるような政策を推進してきた。

1960年代日系自動車メーカーの進出

トヨタと日産は62年に生産拠点を構え、65年にホンダ、66年にいすゞがタイ政府の誘致政策により進出。トヨタは早い段階から事業の現地化を意識しており、東南アジア地域全体での展開を踏まえた長期的なビジョンを持っていた。
また、ホンダは同地域の輸出基地として位置付け、2輪車関連の事業からスタート。69年に投資奨励が打ち切られるまでに11工場が操業し、その結果、60年代半ば以降は欧米系メーカーに代わり、日系メーカーがタイ自動車産業において大きな役割を果たすようになった。

60年代に稼動したタイの自動車産業は、CKD部品を輸入して組立を行うに過ぎなかった。60年代後半には完成車輸入、ならびに中間財や資本財の輸入が増えたことで、貿易赤字が深刻化。そのため、タイ政府は69年8月に「自動車産業開発委員会」を設置し、部品の現地生産を目的とした部品国産化政策を導入する。部品や素形材など多くの裾野産業を有する自動車産業が、工業化を進める過程でタイ国内産業へ波及効果を及ぼすと期待されたためだ。

1970〜80年代ASEAN最大の自動車生産国に

自動車産業育成政策の中心は、この時期にはBOIから工業省へと移った。工業省はタイ国内自動車産業の保護することを目的に、71年7月、民間団体であるタイ自動車工業会(Thai Automotive Industry Association:TAIA)の協力を得て制作を打って出る。その内容は組立工場ごとにモデル数を制限し、73年末までに国産部品25%以上の使用を義務付けるというものだった。

しかし、71年11月、タノム首相のクーデターなどが起こったことで72年にモデル数制限は中止され、25%の国産部品調達義務に関しては75年から適用されることになった。72年の政策変更により、日系自動車製造拠点の新設および拡張が活発化、75年にはタイ国内で14社の日系企業が操業を開始していた。

日系メーカーは国産部品調達義務が課される一方で、各モデルに沿って多品種少量の部品を現地調達する必要があり、日本国内の系列部品企業にタイへの進出を要請。同時にタイ政府も日系企業にローカル部品メーカーへの技術移転を要請し、74年に自動車部品への投資を奨励、8工場が認可を受けた。その結果、70年は2万台だった生産台数が75年には3万台を越え、アジア経済危機を迎えるまでその数は右肩上がりに伸びていった。

1970年代前半のタイは経済成長を遂げたが、70年代半ばには貿易赤字が再び悪化、タイ政府は輸入代替から輸出志向工業化へと政策転換することになる。
輸出志向工業化を実行していくには、ローカル企業の競争力を強化することが不可欠であり、国際競争力の強化を目指し本格的な部品国産化政策を加速させていく。

まず、商務省は2300cc超の完成車は300%、2300cc以下には180%の輸入関税を適用。前述のように工業省は使用部品のうち一定の比率まで国産部品を使用することを義務付けていたが、その見返りとして、自動車メーカーの新規参入を禁止する措置を取った。さらに79年には乗用車の部品国産化比率30%とし、88年までに65%まで引き上げることを通達、80年には商用車についても部品国産化率25%、88年までに60%に引き上げることを決定した。
完成乗用車の輸入禁止措置と自動車部品産業の保護育成策の推進により70年代末には総販売台数に占める現地組立車の比率は8割に達した。

タイ政府の国産化政策に積極的に呼応していったのは、78年に設立されたタイの部品企業の団体であるタイ自動車部品製造業者協会(Thai Auto-Parts Manufacturers Association:TAPMA)であり、政府の働きかけをもとにタイ国内市場の確保を狙っていく。

一方、日本メーカーも政府の要請に応えるため、70年代に引き続き、80年代も日系部品メーカーのタイ誘致に注力している。これらの動きにより80年代後半にタイの自動車産業は大きく変貌を遂げる。自動車生産台数は89年には20万台の大台を突破して21万台となり、ついにインドネシアを抜いてASEAN最大の自動車生産国になった。

1985年のプラザ合意以降、日本を中心とする外国企業のタイ向け直接投資が急増。プラザ合意による急激な円高は、日系メーカーの現地生産拡大にも繋がっていく。自動車メーカーの新規参入を停止し、タイ国内のローカル部品メーカーの保護・育成を図る政策は、日系メーカーにとって高精度部品や高加工処理分野の設備の確保や技術移転に伴うコスト高を発生させたが、自動車部品産業は80年代後半のタイの好調な経済発展にも支えられ、順調に成長していった。同時にタイ国内では自動車産業が急増、生産供給体制が追いつかなくなる。

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THAIBIZ編集部

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