
カテゴリー: 組織・人事
連載: タイ人事お悩み相談室 - Asian Identity
公開日 2026.07.10
Question:タイ人にとって「ルールを守る」とは?
Answer:大義名分は高く、運用は低く。理想を尊重しながらも、実行できる小さくシンプルなルールに落とし込むことが有効です。
タイはお酒に関するルールが厳しい国として知られています。日本人の多くはそれを真面目に守りますが、一方でタイ人はあまり気にしていないように見えることもあります。タイ人にとって「ルールを守る」とは、どういう感覚なのでしょうか。本稿では、タイにあるさまざまなルールの中でも、特に「お酒」に関するルールを取り上げ、タイ人の考え方を探ってみたいと思います。

最近、ニュースになった出来事があります。「午後2時から5時の間は酒類を販売してはいけない」というルールの撤廃です。これは、もともと1972年の軍政時代に「公務員が昼休みに飲んで、業務に戻らなくなるのを防ぐ」という目的で作られた古い決まりだったそうです。
当初は政府職員向けの施策のはずが、やがて誰もが従う全国ルールとなり、半世紀以上にわたって続きました。しかし近年はルールが形骸化していたことなどもあり、今年の5月末をもって、ようやく正式に撤廃されたのです。
他には、お酒を飲むことが禁止されている「仏教祝日(禁酒日)」というものがあります。大事なイベントの予定日が禁酒日と重なってしまい、せっかくの宴席なのに乾杯ができなかったというご経験をお持ちの方もいるのではないでしょうか。こうしてタイで初めて暮らした人は、タイはお酒に厳しい国なのだな、と身構えてしまうこともあるかもしれません。
一方で、周りのタイ人に目をやると、こうした厳しいルールに対して「守るフリ」をしながら柔軟に付き合っているように見えることがあります。真面目な日本人からすると、「ルールを軽視している」と感じる。そんな思いは、私自身も過去何度もしてきました。
そもそも、なぜタイはお酒に厳しいのでしょうか。背景にあるのは、タイ仏教の「 (シーンハー)」、いわゆる五戒という考え方です(シンハービールのシンハー=獅子とは異なります)。仏教徒として守るべきとされる五つの戒律で、その5番目に「酒を慎む」という戒があります。仏教の重要な祝日に、社会全体がこの戒に敬意を表する作法として、禁酒のルールが立っているのです。
ただし、その大義名分は堅持しつつ、運用のほうは現実的になされているのが、タイらしいところです。禁酒日でもホテルや空港、観光地の一部では「例外」として販売が認められていたり、午後2時から5時の販売禁止についても近年は試行的な規制緩和が行われたりしていました。タイ人はこの「大義名分は堅持/運用は柔軟」という二重構造を、当たり前のものとして受け入れています。例外を見つけてホテルのバーで一杯やることは、彼らにとって「ズル」ではありません。運用の一部として、ごく自然に組み込まれているのです。
日本人の感覚としては、ルールというのは「絶対遵守すべきもの」と捉える傾向が強いと思います。だからこそ、例外を探してお酒を楽しむタイ人を見ていると、「それはダブルスタンダードではないか」と感じてしまうのです。建前と本音は別、と言ってしまえばそれまでですが、なんとなくモヤモヤします。そして、こんな疑問も湧いてきます。「大義名分と実際にこれだけ乖離があるなら、それは嘘ではないか?倫理観は、いったいどこにあるのか」と。果たしてタイ人は不誠実なのでしょうか。
タイ仏教の「シーンハー」は、もともと「絶対遵守すべき命令」として作られたものではありません。「人として目指すべき高い理想」というのが、本来の位置づけです。出家した僧侶は、お寺に入っている間、これを文字通り完全に守る修行をします。一方、在家の人々は、その理想に敬意を表しつつ、「自分にできる範囲で守る」。これは怠惰の言い訳ではなく、上座部仏教の伝統的な構造なのです。
そのため、タイ人にとって「酒を慎むのが理想だ」と本気で思いつつ、「でも今夜は乾杯する」というのは、矛盾ではありません。むしろ、人として自分の現実を正直に認めた振る舞いとして、社会の中で位置づけられています。ここが日本人の感覚と大きくずれるところです。日本では「言行一致」こそが重要とされます。「言ったことと行うこと」が乖離すると、人格や信用が疑われます。
しかしこれは、実は世界の中では少数派かもしれません。例えばキリスト教カトリックの伝統には、「大罪」と「小罪」という区別があります。道徳的理想は掲げつつ、現実に犯してしまう罪は「告解」という制度を通じて認められ、神の赦しを求めます。理想は理想として保たれ、人間の現実は別に扱われる仕組みです。「そもそも人間はルールを守り続けられる生き物ではない」という前提に立っているのです。
つまり、「タイ人は不誠実なのか」という問いに対しては、必ずしもそうではない、ということになります。日本式の倫理観で見れば、理想と現実が乖離しているように映るかもしれません。しかし、タイ人にとっては、乖離そのものが「嘘」や「不誠実」を意味するのではありません。理想を尊重しながらも現実を受け入れるという、タイ社会に広く見られる価値観の表れとも言えるのです。
ここからは、日本人マネジャーが社内ルールを設計するときのヒントを、いくつかお伝えしたいと思います(図表1)。

一つ目は、ルールには必ず「大義名分」を添えることです。「お客様のため」「社員の健康のため」「業界の品位を守るため」。こうした崇高な理念は、「効率がいいから守ろう」といった合理的な理由よりも時にパワーを持ちます。タイで企業理念を作るワークショップなどをしていると、「子供たちのため」「社会のため」といったワーディングがこちらが想定する以上に出てきて、驚かされることがあります。タイ人は幼少期からそうした道徳心をベースに教育を受けてきているんだなと気づかされます。そうした要素がタイ人の琴線に触れるということは、従業員の心を動かすうえで知っておいて損はありません。
二つ目は、「それが行動に繋がるかは別」と心得ることです。タイ人従業員の行動を見ていて、「あの時はあんなにいいことを言っていたのに、全然やっていないじゃないか」とガッカリさせられる。そういう経験をしたことのある日本人リーダーは少なくないでしょう。良くも悪くも、「宣言と実行は別」という前提にタイ人は慣れています。
意識すべきは、綺麗な大義名分を保ちつつも「実行できそうなルール」を設定することです。「本当にやり切れるか」を考慮し、ルールを実現可能なものにかみ砕いていきます。ルールは小さくシンプルに、実行可能なサイズに落とす。やり切れないルールは、思い切ってなくしてしまう。こうした作業は日本人マネジャー側がサポートすることが有効です。コツを一言でいえば、「大義名分は高く、運用は低く」。これがタイで効くルールの作法です。
今回はタイのお酒のルールを取り上げましたが、このように見てみるとタイに限らず世界にはさまざまな「ダブルスタンダード」があることに気づきます。そうした矛盾を受け入れ、すべてを白黒つけようとせず「グレーゾーン」に寛容になるということが、リーダーとしての懐を深くしていくことなのかもしれません。

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株式会社アジアン・アイデンティティー 代表取締役
中村 勝裕 氏(愛称:ジャック)
愛知県常滑市生まれ。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒業後、ネスレ日本株式会社、株式会社リンクアンドモチベーション、株式会社グロービス、GLOBIS ASIA PACIFICを経て、タイにてAsian Identity Co., Ltd.を設立。「アジア専門の人事コンサルティングファーム」としてタイ人メンバーと共に人材開発・組織開発プロジェクトに従事している。
リーダー向けの執筆活動にも従事し、近著に『リーダーの悩みはすべて東洋思想で解決できる』がある。Youtubeチャンネル「ジャック&れいのリーダー道場」も運営。
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Asian Identity Co., Ltd.
2014年に創業し、東南アジアに特化した人事コンサルティングファームとして同地域で事業を展開中。アジアの多様な人々を調和させ強い組織を作るというビジョンの実現に向けて、"Asia is One”をスローガンに掲げ、コンサルタントチームの多様性や多言語対応を強みに、東南アジアに展開する日本企業を中心に多くの顧客企業の変革をサポートしている。
◇Asian Identityサービスサイト
http://asian-identity.com

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