カテゴリー: 自動車・製造業
連載: 経済ジャーナリスト・増田の眼
公開日 2024.09.23
タイは紛れもなく東南アジアの製造業のハブだ。特に日系メーカーを中心とする自動車産業がタイの高度成長期を後押しし、東南アジアの経済発展を先導してきた。そして日本の「モノづくり」の思想はタイでも根付いたのかと思われる。その担い手を育てる役割を果たしてきたのが今週、学長インタビューを配信した泰日工業大学だ。しかし、東南アジアのモノづくり、製造業ではベトナムが急速に台頭しつつある。一方、タイ人は必ずしもモノづくりが得意ではなく、経営やマーケティングを好むとの話もよく聞かれる。
今年6月の連載記事で紹介したマレーシアでの半導体国際会議での取材では、半導体産業では「タイは決定的に人材不足」であり、同産業ではシンガポール、マレーシアの次はベトナムだとの指摘が強く印象に残った。タイ政府も半導体産業など製造業の技術者、エンジニア育成の重要性を再認識しつつある。そうした中、2019年5月に日本政府の支援でタイのキングモンクット工科大学ラカバン校(KMITL)内に開校した日本の高等専門学校と同様の5年間一貫で技術者教育を行う海外初の本格的高専「KOSEN-KMITL」が今年3月に初の卒業生を出した。タイ人の間で本当に日本のモノづくりの精神と実務が本当に定着するのか試金石となりそうだ。
「国を大きく発展させるために日本基準に基づいた高等専門学校システムで教育を受けられる実践的な育成を目指している」
キングモンクット工科大学ラカバン校(KMITL)で9月22日に開催された「KOSEN-KMITL」の1期生の卒業式で、タイ高等教育・科学・研究・技術革新省のパームスック次官は同校の意義をこう説明した。この卒業式では大鷹正人駐タイ日本大使など多数の来賓が祝辞を述べた後、この日出席した14人の卒業生に卒業証書が手渡された。
国際協力機構(JICA)を通じた日本の円借款や、高等専門学校機構などの支援により、KOSEN-KMITLは2019年にメカトロニクス工学科がスタート。2021年にコンピューター工学科、2023年に電気電子工学部も始まり、2024年には高専卒業後に2年間学ぶと学士号が得られるアドバンスト・イノベーティブ工学科も開設された。開校以来の応募者数と入学者数、その倍率を見ていくと、初年度は応募者数306人、入学者数24人で1:13の倍率だったが、その後、学科の増設もあったため応募者数は増え続け、2023年度には応募者数5658人、倍率は1:51まで増加、学生数は2024年度で177人まで増えている。また2020年5月にはキングモンクット工科大学トンブリ校にKOSEN-KMUTTが開校している。
今年3月に卒業した1期生は入学時には24人だったが、その後、長岡技術科学大学に3人、豊橋技術科学大学に1人が途中編入。また、KOSEN-KMITLが開設したアドバンスト・コース(2年間)に5人が進学した。転学した学生1人を含め既に15人が就職しており、就職先はコマツに3人、日本航空(JAL)とホンダR&Dに2人ずつ、その他は森精機、サイアムクボタ、リコー、デンソーなどが各1人で、日本企業との関係も深いタイ企業にも2人が就職したという。
今週配信した泰日工業大学(TNI)のランサン学長のインタビューはさまざまな意味で興味深かった。特にTNI開学の母体となった泰日経済技術振興協会(TPA)設立の背景にはタイでの反日運動があり、日タイの架け橋を作ろうという機運が高まったこともあったという。こうした困難な時期を経ながらも日タイの先人たちの友好関係の強化に向けた地道な取り組みが、現在の日タイの「蜜月関係」につながったのだろう。そして、タイが日本のモノづくりのノウハウを取り込み東南アジアの製造業のハブの座を築く上で、TPAと泰日工業大学が果たした役割が大きかったのは間違いないだろう。
それではなぜ、日タイ政府が協力して日本の高専制度を取り入れた製造業人材の育成の新たな取り組みを始めたのだろうか。ランサン学長が「毎年、多くの卒業生が日本企業に就職しているが、それでもまだ日本企業のニーズを満たしていない」と言うように、在タイ日系企業が求めている日本語か、英語ができるタイ人エンジニアの数がまだ不足しているのだろうか。最近のタイ人学生は経営やマーケティングを志向する人が多いため、製造現場のエンジニアを求める日本企業とのマッチングがあまりうまくいっていない可能性もある。
例えば、タイ人の就職人気企業調査では最近は欧米のIT大手やタイ財閥企業がランキング上位を占め、日本企業ではトヨタ自動車ぐらいしか上位に入っていないことも知られるようになってきた。これは単に給与面や人事面での日系企業の「採用負け」だけではなく、タイ人学生の間で製造業があまり好まれないこともあるのか。タイが今後も製造業のハブの座を維持できるのか、台頭するベトナムに対抗できるのかが大きな関心事だ。
今週のニュースピックアップでも紹介したが、国家経済社会開発委員会(NESDC)のダヌチャ長官は9月17日に行われたパネルディスカッションで、「タイは毎年、約40万人が学士号の取得を目指しているが、科学やエンジニアリングを勉強しているのは23%に過ぎない。残りは経営、法律、そして芸術だ」と実態を明らかにしている。
中国自動車大手の長安汽車(CHANGAN)は9月17日、バンコク市内のクイーン・シリキット国際会議場(QSNCC)で高級電気自動車(EV)ブランドのアバター(AVATAR)のスポーツ用多目的車(SUV)の「アバター11」を初公開した。アバターは中国の通信機器大手華為技術(ファーウェイ)、車載電池大手CATL(寧徳時代新能源科技)との合弁事業としても注目されていたこともあり、タイ地元メディアが多数押しかけた。ここ数年、バンコクで開催される自動車ショーに新しい中国EVメーカーが登場するたびにメディアが殺到し、タイ人の「新しもの好き」、そしてデザイン重視を象徴する光景ともなっている。
しかし、世界的なEVブームの陰りと、中国製自動車の供給過剰が伝えられる中で、タイでは長安汽車を含め多数の中国EVメーカーが次々とタイ国内生産を推進しようとしていることを知ると、今後、タイの自動車市場の需給関係がどうなってしまうのかという懸念を強めざるを得ない。また、製造方法が従来の内燃機関(ICE)車とかなり違うEVを現場で製造するタイ人労働者、そしてエンジニアを十分に供給可能なのか。
今後、EVがどの程度までシェアを増やしていくのかは分らないが、タイがEV製造でも東南アジアのハブを目指すなら、EVに不可欠な半導体産業の人材育成も極めて重要だ。タイの政府関係者もこの事実に気づき、対策を取り始めている。しかし、人材育成は一朝一夕でできるものではなく、地道で継続的な取り組みが必要だ。
今後、タイの自動車市場で、EV中心の中国系メーカーのシェアが例えば2割ぐらいまで増え、定着した場合、自動車関連などの日本の産業界による泰日工業大学開設に見られるように、中国企業も中国語教育と製造業人材の育成に取り組み、タイ社会に根づいていくアプローチをするようになるのだろうか。もちろん、EVの開発、製造はICE車の開発、製造とはかなり違った形かもしれず、日本と同じアプローチにはならない可能性もある。
逆に、EVが従来の自動車のように安全性と乗り心地、運転フィーリングを優先するものではなくなり、インターネットにつながる移動娯楽空間としての用途が重視されるようになった場合、むしろタイ人はICEより、EVの商品開発、製造、そしてマーケティングの方が適性があるのかどうか。過去数年のタイ人の間でのEV人気の急拡大はその前兆だったと考えることもできるか。ともあれ、タイでの製造業人材の育成では、中国製EVの普及度合いも影響してくるのかもしれない。
THAIBIZ Chief News Editor
増田 篤
一橋大学卒業後、時事通信社に入社。証券部配、徳島支局を経て、英国金融雑誌に転職。時事通信社復職後、商況部、外国経済部、シカゴ特派員など務めるほか、編集長としてデジタル農業誌Agrioを創刊。2018年3月から2021年末まで泰国時事通信社社長兼編集長としてバンコク駐在。2022年5月にMediatorに加入。
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