タイ企業が日系企業に「売却したい」理由 後継者不足が生む新潮流

THAIBIZ No.177 2026年9月発行

THAIBIZ No.177 2026年9月発行タイ宇宙産業に商機はあるか いま、民間企業が動くべき理由

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タイ企業が日系企業に「売却したい」理由 後継者不足が生む新潮流

公開日 2026.09.10

タイ企業が、日系企業を「買い手」に指名している―。高齢化や教育水準の向上を背景に、後継者不足に直面したタイ企業が、「廃業するくらいなら売却したい」とM&Aに動き始めている。そして、売却先として熱い視線を送るのが日系企業だ。

日本のプレゼンス低下が叫ばれるなか、なぜ今、日系企業が選ばれるのか。タイのM&A市場では、何が起きているのか。この市場で起きている新たな潮流を、M&AアドバイザリーファームであるSME M&A (Thailand) Co., Ltd.(以下、SMAT)代表取締役の井直大氏に聞いた。

年々増加傾向にあるタイのM&A件数

年ごとの増減はあるものの、長期的に見るとタイのM&A件数は増加傾向にある(図表1)。なかでも5億円以下の小規模案件が目立ち、タイ国内の中堅・中小企業(主に年商10億円以下)を対象にM&A支援を手掛けるSMATにも、毎週2~3件の新規相談が継続的に寄せられているという。

「マクロ経済には停滞感がある一方、現場では後継者不足やさらなる成長を目的とした中小企業のM&Aが活発化している」と井氏は語る。

その背景にあるのが、タイの急速な少子高齢化だ。タイ中央銀行(BOT)によれば、2024年時点で60歳以上の人口は約1,400万人と、総人口の約20%を占める。国連も、今後10年以内にタイは超高齢社会へ移行し、65歳以上が総人口の20%を超えると予測している

実際、SMATに寄せられる相談案件の大半は、「親族内に後継者がいない」「次世代への事業承継が難しい」といった課題を抱えている。こうした後継者不足問題が、タイのM&A市場を押し上げる要因の一つとなっていると見られる。

※参考:BOT「How to Prepare for Retirement So You Have Enough to Live on for Life」

なぜ子どもが後継しないのか

後継者不足の深刻化は、人口減少だけが原因ではない。井氏は「優良企業のオーナー経営者ほど子どもの教育水準が高く、海外留学を経験させるケースも増えている。その結果、子どもは家業を継ぐのではなく、海外や外資系企業へ就職する傾向が強まっている」と説明する。

さらに、デジタルトランスフォーメーション(DX)の進展やグローバル競争の激化も、事業承継のハードルを押し上げている。「この先、親と同じやり方では通用しない」とプレッシャーを感じて承継を辞退する子どもや、「子どもに苦労をさせたくない」と、あえて事業を継がせない親も増えているという。

こうした状況を踏まえると、社員への承継という選択肢も考えられる。しかし井氏は、「業績の良い企業ほど企業価値が高く、自社株を社員が買い取ることは容易ではない」と指摘する。そのため、親族や社員への承継が難しい企業では、第三者への売却が現実的な選択肢として浮上する。

加えて、タイでは日本ほど「会社を売ること」に対する心理的な抵抗感が強くない。新規株式公開(IPO)が中小企業の一般的な出口戦略として十分に定着していないことも、第三者への売却を後押しする要因になっているという。

50~60代のオーナー経営者が売却を希望

では、売却を希望するタイ人オーナー経営者には、どのような特徴があるのか。

「タイでは公務員や一般企業の定年が55~60歳と日本より早いため、50歳を迎えたオーナー経営者が『同級生があと5年、10年で次々と引退していく。自分も次の道を考えなければならない』と思い、相談に来られるケースが多いのが最大の特徴だ」と井氏は話す。

これは買い手にとっても大きなメリットとなる。日本では70~80代になり、「いつ倒れるか分からないから急いで売りたい」と駆け込むオーナー経営者も少なくない。一方、タイでは比較的若い50~60代から相談が始まるため、売却後も十分な引き継ぎ期間を確保できることが多い。場合によっては、売却後も元オーナー経営者がアドバイザーや取締役として経営に関わり続けるケースもあり、技術や顧客との関係、人脈などを円滑に引き継げることが、買収後の事業運営を支える大きな強みとなる。

そして、こうしたオーナー経営者が売却先として希望するのが、日系企業である。

日系企業が売却先として選ばれる理由

SMATに会社の売却を相談するタイ人オーナー経営者の多くは、売却先の第一希望として「日系企業」を挙げる。SMATが紹介先を日系企業に絞っていることも理由の一つだが、そもそもSMATに相談する時点で「日系企業に売りたい」という意向を持っている、ということだ。

井氏はその背景について、「今でこそ日系企業のプレゼンス低下が叫ばれているが、事業承継を考えるタイ人オーナー経営者の世代にとって、日系企業に会社を引き継ぐことは一つの誇りであり、安心感につながっている」と語る。

現在50~60代のタイ人オーナー経営者の多くは、1980年代後半から1990年代にかけての日系企業進出ラッシュとタイの工業化を現場で経験した世代だ。品質や人材育成を重視する日系企業とともに成長した経験から、日系企業への信頼は依然として根強い。中国企業などとの接点が多い若い世代の経営者とは、そもそも価値観が異なるという。

「タイのオーナー経営者が最も気にしているのは、条件面よりも『相手がどのような会社か』『自分たちの考え方と合うか』といった信頼性やマッチングの部分だ」と井氏は続ける。

彼らが感じている日系企業の魅力の一つは、「従業員を大切にする企業文化」だ。欧米系や中国系企業に買収された場合、大規模なリストラが行われるリスクを懸念する声もある。一方、日系企業に対しては「雇用を維持し、長期的な視点で人材を育ててくれる」という安心感が広く浸透しているという。

もう一つは、「圧倒的な誠実さと情報漏えいリスクの低さ」だ。井氏によれば、海外企業の中には、買収監査(デューデリジェンス)の段階で機密資料や顧客データを提出させた後、「やはり買収は見送る」と破談にし、その情報をもとに顧客を奪うといった悪質な事例もある。一方、日系企業ではそのような不誠実な対応はほとんど見られず、長年培われた信頼関係があるため、売り手も安心して情報を開示できる。

「日本企業は意思決定に時間はかかるものの、『一度決まったことは途中で曲げない』という姿勢が評価されている。タイ人オーナー経営者はまだ若く、売却を急いでいない。そのため、スピードよりも信頼できる相手かどうかを重視する傾向がある」と井氏は分析する。

実際、中国系企業からより高い買収価格を提示されても、それを断って日系企業への売却を選ぶタイ人オーナー経営者は少なくないという。価格だけでは測れない信頼が、長年にわたり在タイ日系企業が築いてきた強みであり、いまタイ企業から売却先として数多く指名される理由の一つとなっている(図表2)。

日系企業がタイ企業を買う理由

では、日系企業がタイ企業を買収するメリットはどこにあるのか。

近年、タイでM&Aを活用する日系企業は着実に増えている。その背景には、大きく二つの目的がある。一つ目は、「時間を買う」ことだ。 これまでタイへ進出する企業の多くは、自社ブランドやサービスを持ち込み、法人設立や人材採用、販路開拓を一から進めてきた。しかし、すでに事業基盤を持つタイ企業を買収すれば、許認可や人材、顧客、営業体制などを引き継ぎ、短期間で事業を立ち上げられる。近年では、こうしたスピードを重視してM&Aを選択する中堅・中小企業も増えている。

二つ目は、「ローカル市場への本格参入」だ。 タイ進出から10~20年が経過した日系企業でも、売上の大半を日系企業向けが占め、地場企業との取引を十分に拡大できていないケースは少なくない。そこで、タイ企業を買収することで、長年築かれた顧客基盤や営業ネットワーク、ブランドへの信頼を取り込み、一気にローカル市場を開拓しようという動きが広がっている。

こうしたニーズを背景に、ASEAN主要6ヵ国の中でも、日系企業によるM&A件数が顕著な増加傾向にあるのはタイのみとなっている (図表3)。

M&A成功企業に見られる共通点

もっとも、日系企業がタイ企業を買収する際には、いくつか留意すべき点がある。

買収時のポイントとして井氏が強調するのは、「高値掴み」のリスクだ。 「特に中小企業のM&Aでは、十分な価格交渉ができず、自社の想定する投資回収予算を上回る金額で買収してしまうことが最大のリスクになる。買収後に十分な投資回収ができず、経営そのものを圧迫しかねないため、売り手と買い手双方が納得できる適正価格で成立させることが何より重要だ」と話す。

また、買収後に日本式のマネジメントを一方的に押し付けることも得策ではない。井氏は「現地のカルチャーを無視して日本のルールを急激に導入すると、反発が生じ、優秀な人材が大量に離職する可能性がある」と指摘する。そのうえで、「まずは半年から1年ほど現場の状況を見極め、何を変え、何を残すべきかを現地スタッフと丁寧に対話しながら進めることが不可欠だ」と助言する。

では、M&Aを成功させている日系企業にはどのような共通点があるのか。 同氏は「買収後に誰を社長に据えるのかをあらかじめ決め、その人物がディールの段階から関わっていることだ」と明かす。

実際に、SMATが支援したある案件では、タイ人オーナー経営者は子どもがいたものの、会計士として別のキャリアを歩んでおり、家業を継ぐ意思がなかったため、後継者不在に悩んでいた。買い手となった日系企業は同業だったが、扱う製品の価格帯やターゲット市場が異なっていた。タイ企業が持つ低価格帯製品と、日系企業の高付加価値・高価格帯製品を組み合わせることで、双方の顧客基盤を活用したクロスセルが可能になるという明確なシナジーを見いだし、買収に至った。成約後もタイ人オーナー経営者は取締役として経営に残り、日系企業の資本力や技術力を活用しながら事業を着実に拡大しているという好事例だ。

この案件でも、買収後に社長へ就任する人物がディールの段階から交渉に加わっていた。「買収後の経営体制を見据えながらM&Aを進めたことが、円滑な事業承継とPMI(買収後の統合)の成功につながった」と同氏は分析する。

経営戦略としての「タイ企業買収」が有力な選択肢に

井氏によれば、近年では日系企業が既存事業の先細りを見据え、異業種のタイ企業を買収する事例も出てきている。例えば、タイで20年ほど製造業一筋で事業を展開してきた日系企業が、業績は黒字でありながら将来的な成長の限界を見据え、新たな事業の柱を求めてサービス業へのM&Aに踏み切ったケースもあるという。

一方で、在タイ日系中堅・中小企業の中には、「自社の規模でもタイでM&Aができる」という認識を持っていない企業も少なくない。「既存事業だけで生き残っていけるのか」「地場の顧客を増やしたいが、どう進めればいいのか」─。こうした経営課題を抱えながらも、M&Aを有力な選択肢として検討できていない企業は多いという。

井氏は、「タイ企業側でも、黒字経営にもかかわらず後継者不在を理由に廃業してしまえば、従業員や取引先に大きな影響を与え、地域経済にとってもマイナスだ。事業を次世代へつなぐ有力な選択肢として、M&Aは今後さらに一般的になっていくだろう」 と予測する。

既存事業の成長鈍化や市場環境の変化が進むなか、タイ企業の買収は、事業承継だけでなく、新たな事業領域や顧客基盤を獲得する経営戦略の一つとなりうる。さらなる成長を目指す在タイ日系企業にとって、こうした選択肢を持っておくことが、今後の競争力維持・強化につながるだろう。

THAIBIZ編集部
白井恵里子

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