カテゴリー: ビジネス・経済, ASEAN・中国・インド
連載: 川島博之が読み解くアジア
公開日 2023.07.11
インドのモディ首相が国賓として米国を訪問した。米国内には彼はヒンズー至上主義者でありイスラム教徒などの迫害に関係があるとして、その訪問を歓迎しない向きもあったが、米国の政財界の大半は彼を歓迎した。彼の訪米は今回が6度目であるが国賓としては初めてであり、大きく報道されたのも初めてだ。
それは関係が悪化している米中関係を反映したものと言ってよい。今回のモディ首相の訪問を1979年の鄧小平の訪米に模す見方もある。米国と中国の関係はこの鄧小平の訪問によって急速に深化した。
米国とインドの接近は東南アジアに大きな影響を及ぼすことになる。それは現在、東南アジアの国々が享受している中国からの工場の移転先という地位をインドが本格的に奪う可能性があるからだ。
インドの人口は今年に入って中国を抜いた。米国はそんな14億人の人口を擁するインドとの経済関係を強化しようとしている。具体的には今後、アップルなどの企業がインドへの投資を増やすことになるだろう。
インドのインフラはタイやベトナムに比べてだいぶ見劣りがする。それは2022年のタイの1人当たり国内総生産(GDP)が7500ドル、ベトナムが4160ドルであるのに対してインドが2300ドルに留まっていることからも明らかだ。ただ2012年のインドの1人当たりGDPが1434ドルであったことを考えると、この10年ほどの間にインド経済は大きく成長した。鄧小平が米国を訪問した1979年の中国と比べれば、現在のインドの方がインフラの整備はずっと進んでいるとの見方もある。
米国の戦略はしたたかである。世界情勢の変化を鋭敏に読み取る。米国は中国との関係を「デカップリング(切り離し)」ではなく、「デリスキング(危険の排除)」にしたいと言っている。それは米国経済が深く中国と関係しており、簡単に切り離すことはできないためだ。折しも米国は物価高騰に苦しんでいる。コロナ禍に対応するために大量の資金を市場に供給したことが最大の要因だが、米国に安価な製品を供給している中国との関係が悪化したことも一因になっている。
米国は科学技術や軍事において中核的な役割を果たす半導体に関する技術が中国に渡らないように画策している。中国を安価な消費財を作る国にとどめておきたい。そして必要とする消費財をインドが大量に生産できるようになれば、中国とのデカップリングを考えることになるだろう。デリスキングと言う聞きなれない言葉を使い始めた背景にはそのような意図が隠されている。
それが分かるだけに中国は米国に対する警戒感を緩めることはない。先にブリンケン国務長官が中国を訪問した際にも冷遇した。習近平は朝貢にきた使節を皇帝が謁見するような態度で彼に接した。それに怒った米国はバイデン大統領が習近平を独裁者と言い、それを取り消すことはなかった。覇権を求める国家間の対立は話し合って解決される問題ではない。
そんな米国にとってインドは東南アジアの国々以上に都合のよいパートナーである。それはインドが中国と領土問題を巡って深刻な対立を抱えているからだ。中国はインドが強くなることを恐れている。
両国の間には領土を巡る紛争だけではなく、より大きな問題が隠されている。それはチベット問題に他ならない。ダライ・ラマ14世はインドに亡命しており、今もインドに暮らしている。チベットの人々は中国よりもインドに親近感を持っている。チベットの文化はブータンがそうであるように、中国ではなくインドに近い。
インドはチベットを陰で支援している。中国はそんなインドの態度を許すことはできない。近年、ウイグル問題に隠れてチベットが話題になることは少なくなったが、チベットは山岳地帯にあることから統治が難しく、中国共産党にしてみればウイグルよりもチベットの方が厄介な問題になっている。
米国はそんなインドとの関係を深めようとしている。米国の資本と技術がインドに向かうと、かつての中国がそうであったように、ヨーロッパやオーストラリア、日本、韓国などの資本もインドに向かう。
図にタイ、ベトナム、インドに対する直接投資の変遷を示すが、インドへの投資は近年着実に増加している。2010年代の中国への投資額は年間1200億ドル程度だったから、インドへの投資は中国への投資の半分程度にまで増えている。一方、タイへの投資は2014年に生じたクーデターの影響もあって低迷しており、ベトナムへの投資は増えているものの、インドほどではない。
モディ首相の訪米が歓待された事実に鑑みると、今後、図に見られる傾向は一層強まるだろう。インドという強力なライバルが出現した以上、タイやベトナムがこれまで採用してきた、海外から資本と技術を導入し、それに安い労働力を組み合わせるという発展モデルを続けることは難しくなる。
これからは韓国のサムスン電子、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業のような世界をリードする企業を作らねばならない。韓国と台湾が中進国から先進国に飛躍できた理由の一つはサムスンやホンハイにあったと考えられる。思えば日本の高度成長も、トヨタ自動車、ホンダ、ソニー、キャノンと言った世界的な名声を獲得した企業が出現することによって達成された。
海外から資本と技術を導入しそれに安価な労働力を組み合わせるだけでは、「中進国の罠」から抜け出すことができない。インドという巨大なライバルが出現したことによって、過去の成長モデルの有効性は減退しよう。世界と競争できる自国資本の企業を育てなければ次の発展はない。中進国から先進国入りを果たすために、両国はそこが問われ始めている。
ベトナム・ビングループ主席経済顧問
Martial Research & Management Co. Ltd.,
チーフ・エコノミック・アドバイザー
川島 博之 氏
1953年生まれ。77年東京水産大学卒業、83年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得のうえ退学(工学博士)。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、ロンドン大学客員研究員、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授などを経て、現職。
主な著書に『農民国家・中国の限界』『「食糧危機」をあおってはいけない』『「食糧自給率」の罠』『極東アジアの地政学』など。
近著として「日本人の知らないベトナムの真実」を執筆。
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