カテゴリー: ビジネス・経済
連載: 経済ジャーナリスト・増田の眼
公開日 2023.08.29
8月22日はタイ現代政治史の中でもエポックメーキングな日となるのだろう。タイに縁がなかった日本人でも名前は聞いたことのあるだろうタクシン元首相が15年ぶりにタイに帰国した。実は首相を務めたのは2001年から2006年までの5年あまりでしかない。日本の安倍晋三元首相は2回にわたりのべ9年近く首相の座にあった。タクシン氏は軍事クーデターで2006年に失脚したが、タイ社会の「赤シャツ、黄シャツ」の激しい対立に至る貧富の格差の激しいタイの政治社会構造に大きなインパトを与え、今でもその存在はタイ社会の基底にある。公権力乱用罪などで実刑判決を受け、海外逃亡中だったタクシンが、収監覚悟で戻ってきた真の意味は何なのだろうか。王室や親軍政党との妥協など、さまざまな憶測を誘っている。
そして、反軍政の革新派政党「前進党」が第1党に躍り出るという驚くべき結果だった5月14日の下院総選挙から、3カ月以上が過ぎてようやく、タイ国会は新首相を選出した。前進党にタイの未来を見出した多くの国民の期待は実現せず、第2党であるタクシン派のタイ貢献党が連立の首班として親軍政党まで取り込むことで、元不動産開発大手センシリの元社長、セター氏をタイの第30代首相に選出することができた。タクシン派のこの決断が今後のタイ政治社会にどのようなインパクトを与えるのか。在タイ日系企業も新政権の経済政策とともに注意深く見守っていく必要がありそうだ。
「この新たな連立で東南アジア最古の民主国家における9年間の軍事政権が終わることになる。タイ貢献党の実質リーダーであるタクシン元首相の影響下で、新政府はこれまでの軍事政権よりは不適任ではないだろう。5月の下院総選挙で第2党となったタイ貢献党は、民主主義の点でも改善したように見える。しかし、これは真に起きたことをうわべで取り繕っただけだ。このディールはタイの民主主義の勝利ではなく、王室と軍部のエリートによる抑圧の取り組みだ。エリートは彼らの権力を壊すと公約した総選挙の真の勝利者の前進党を拒絶。当初、その力を弱めると公約した軍部と妥協し、前進党を妨害したタクシン氏は、自身がタイの民主主義の友人ではなく、むしろ体制派の道具でしかないことがあからさまになった」
タイを滅多に取り上げることがない英エコノミスト誌8月26日号は、タイの新首相選出と、逃亡中だったタクシン元首相の帰国を2本の記事で取り上げ、Leadersの「タクシン・チナワットは彼の真の色を示している」というタイトルの記事のリードでこう表現した。
そして、「一度はその同志が民主主義を確立するために戦ったタイ貢献党は、前進党を裏切る一方で、少なくとも新たな連立の中で既得権益者の力を最小限にすることができたはずだ。しかしそうはせず、その影響力をタクシン氏の確実な帰国のために行使した。タクシン氏は、長年の汚職の罪で逮捕され、収監されたが、近く恩赦を受けられると予想されている」と説明している。
同記事は経済面での影響については、「短期的にはタクシン氏のディールは、軍事政権下で悲惨だった経済に安定をもたらすだろう。最近では2005~2009年は東南アジア第2位の大国だったタイは、域内でトップの外国直接投資を享受し、特に電子や自動車部品など製造業のハブの地位を得た。しかし、過去5年間は投資資金の流入ではインドネシアやベトナムに出遅れた。タイ貢献党のセター・タウィーシン首相の下、新政府は経済を改善させるだろう」との見方を示している。軍事政権だったから経済が悲惨だったという見方には違和感があるが、やり手ビジネスマンが率いるタイ貢献党首班政権の経済運営に期待を示している。
ここで改めてタイ貢献党が21日に、下院第3党のタイ誇り党、そして親軍派の国民国家の力党とタイ団結国家建設党など11党の連立の枠組みを発表した際に各種地元メディアが報じた主要な政策公約は次の通りだ。①16歳以上の国民にデジタル通貨1万バーツ配布②土地の所有権を認める③最低賃金を2027年までに600バーツに引き上げ④大卒給与を最低2万5000バーツに⑤自発的な徴兵制度⑥農産物価格の引き上げ⑦南部国境3県の紛争解決・平和維持⑧医療・健康用大麻⑨より民主的な憲法への改正⑩汚職・不正行為の防止⑪王制の維持-の11項目となっている。
これらの公約はごく簡単な表現で詳細な説明がなく、具体性は乏しい。ただ、これらの中で注目されるのは、タイ貢献党が強調してきた1万バーツの配布や、最低賃金の600バーツまでへの引き上げ、そして医療・健康用大麻だろう。3番目の大麻については地元メディアでは、「医療・健康用大麻」としか書かれていないが、これは連立に大麻自由化の旗振り役であるタイ誇り党が入ったことで、当然、「医療・健康用大麻の推進」という意味だと思われる。前進党やタイ貢献党など8党が5月22日に合意していた公約では、「カンナビス(大麻)の麻薬リスト再掲載と規制法導入」だったことから、タイ誇り党に配慮したと考えられる。8月22日付バンコク・ポスト紙(ビジネス1面)によると、「タイ誇り党が連立に加わったことで、大麻関連ビジネスの道筋が明確になった」とする一方で、「観光業界は、大麻ショップが急増する中で、大麻利用のルールを1年以内に導入すべきだ」と訴えているという。
そして、もう一つの話題が1万バーツのデジタル通貨の配布だ。8月25日付バンコク・ポスト紙(ビジネス1面)によると、株式市場のアナリストらは同政策は国内消費を刺激し、関連ビジネスの成長機会を提供するなどの理由で評価している。ただ一方で、24付同紙9面のオピニオン欄では、フリーランスのエコノミストは、その財源が新規資金ではなく、2024年予算から捻出するとしていることで景気刺激にはつながらないだろうと批判している。さらに、25日付同紙1面によると、タイ貢献党は24日、1万バーツのデジタル通貨配布は来年4月までに実行されるとの見通しを明らかにした上で、まだ導入されていないにも関わらず、オンライン上でこの政府のデジタル通貨を装った詐欺行為が出始めており、国民に対し詐欺に引っかからないよう警告したという。
英エコノミスト誌8月26日号のアジア面でのもう1本のタイ政治の記事のタイトルは、「タイの新しいタクシニスト政府」だ。この記事ではタクシン氏の帰国とタイ貢献党の新政権樹立の背景と経緯を淡々と説明。そして、タクシン派が親軍勢力と組んだことに後悔することになるだろうとの見方を示している。タイ国立開発行政大学院(NIDA)の世論調査でもタイ貢献党が親軍政党を取り込んだことに60%以上が反対していると紹介。同記事は最後に、「もしこの新政権が失敗し、新たな総選挙が行われた場合、今年5月の時よりもより大きな差で前進党が勝利するだろう。タクシン氏のディールにもかかわらず、タイで最も人気ある政党はまだ終わっていない」と結んでいる。
もともと、5月の総選挙で革新派の前進党が予想外に勝利したとはいえ、上院はすべて軍事政権が任命した議員で、王制改革を訴える前進党を支持できない以上、そもそも前進党首班の政権ができる可能性はほとんどなかったといえる。それでは、現在の上院議員が任期満了となる来年以後に総選挙が行われた場合に、エコノミスト誌が予想するように、前進党が本当に5月総選挙以上の大きな勝利となるかは良く分からない。一方で、選挙前の公約から完全に変節したタイ貢献党は今後、分裂のリスクも含め、多難な道筋となるのだろう。一方、タイ現代政治の中で大きな存在感を示してきた民主党の衰退ぶりが著しい。今回の下院の首相指名投票では、棄権するとの党議に反して、16人がタイ貢献党のセター氏に投票したことが物議を醸しており、もはや党への求心力がなくなっている印象だ。
今回の前進党の予想以上の躍進と政権樹立の失敗は、2019年の総選挙で第3党に躍進した新未来党がタイ政治の新時代到来を予感させたものの、すぐに解党処分になり、タナトーン党首が議員資格をはく奪されたことを思い出させる。タナトーン氏はその後、後継となった前進党を裏で支援し続けてきたようで、今回の新首相指名前の7月に香港でタクシン氏と隠密で政治的妥協を協議したと報じられ、批判も浴びている。ただ、今回の前進党ブームの原点は紛れもなくタナトーン氏率いる新未来党の躍進だった。王党派、親軍政党から理不尽に叩き潰されたタナトーン氏がいずれタイ政治の表舞台に復帰し、タイの真の民主化に貢献できることを期待したい。
THAIBIZ Chief News Editor
増田 篤
一橋大学卒業後、時事通信社に入社。証券部配、徳島支局を経て、英国金融雑誌に転職。時事通信社復職後、商況部、外国経済部、シカゴ特派員など務めるほか、編集長としてデジタル農業誌Agrioを創刊。2018年3月から2021年末まで泰国時事通信社社長兼編集長としてバンコク駐在。2022年5月にMediatorに加入。
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